伍大力菩薩

五大力の本地

住吉つも寺薬師の由来

武蔵権太夫

大伝馬三丁目鱗形屋孫兵衞

 

刊期不明(元禄後期頃)

(説経正本集第三(42))

 

 

初段

 

扨も其の後

それ、富は、僅か一世の宝なり

命終わるに臨んでは

敢えて、身に従わず

只、後の世の助けには

かいとせと(?)

慈悲心に過ぎたる事は更に無し

 

此処に、摂州住吉神宮寺

津守(つも)寺の薬師如来の由来を

詳しく尋ね奉るに

本朝七十八世

二条の院の御宇かとよ

和泉、河内の守護職をば

浜名の左右衛門道高とて

弓取り一人おわします

 

御台所は、去年(こぞ)の秋

儚くならせ給いしが

忘れ形見の姫君あり

生年は十五歳

容顔ことに麗しく

花も紅葉(もみじ)も月雪も

例えを取るに及ばねば

いつも常磐の松が枝(え)も

春は色増す風情とて

緑の前と名付けつつ

父上、寵愛限り無し

 

さてまた、家の執権には

河瀬の形部正行

森本弾正介友

長尾の玄蕃定治

同一子、治親(はるちか)とて

いずれも劣らぬ兵共

君を守護し奉れば

靡かぬ草木もなかりけり

 

頃は永万(えいまん)元年(1165年)五月初めの事なるに

道高、仰せける様は

 

「我、未だ、住吉の御田植えを

見物せず

幸い、今日は、空晴れ

心も、いとど住吉に

参詣せんと思うなり

用意せよ」

とぞ仰せける

畏まって候と

路次(ろし)の行列華やかに

住吉指してぞ参らるる

 

御前になれば、

「あら有り難の宮立ちや、

この御神と申すは、

そも、神功皇后、

三韓を征伐ありし折からに

舟の舳先へ現れて

逆徒を退治ありし故

さてこそ、皇后、帰朝の折

この所に、宮居を召し

底筒男(そこつつお)、中筒男(なかつつお)、表筒男(うわつつお)の三神に

社(やしろ)を添え

住吉四社と勧請あり

 

されば、弓矢の守護神ぞや

武運長久、安全に

守らせ給え」

と、礼拝し、それよりも道高は

田の面へ、降りさせ給いけり

見るに、心も晴れやかに

堺、高須の遊女ども

(大阪府堺市堺区高須町)

いとしおらしく立ち出でて

早苗取り取り、様々に

笠の外れも面映ゆく

面(おもて)を隠し、泡沫の(うたかたの)

哀れ儚き、賤の業とは思えども 

植ゆる田の、実らば、これぞ、ちはやぶる

神の御前に供えんと

寿(ことぶ)く声も、五月雨(さみだれ)の

水、穏やかに水口を

守り治める、頃は今

五月(さつき)のさお(早)の乙姫の

月の晴れ笠、着て歌う

『植えい、植えい

早乙女の

声比べする不如帰(ほととぎす)

『ほぞんかけた』の初音こそ

迦陵頻伽も数ならず

ああ、面白や、目出度や』と

神慮(しんりょ)を勇め

早乙女(そうとめ)は

打ち連れ立ってぞ入りにける

 

その時、社務は、立ち出でて

御幣、おっ取り、打ち払い

『五風十雨(ごふうじゅうう)も時を得て 

天永く、地久しく

一粒万倍、豊饒(ほうにょう)』と、良きに、御祈念ありけるは

有り難かりける次第なり

 

さて、それよりも、道高

我が住む館(かた)へと志し

七ど(七堂・七道)の浜へぞ立ち出でて

(大阪府堺市堺区鉄砲町)

磯辺を通らせ給いけり

 

掛かるところに、童(わらんべ)共

小さき、亀を捕らえつつ

「只、討ち殺せ」

と、どよめきて

彼方此方と、苛みけり(さいなみ)

道高、この由、ご覧じて

 

「その亀、我に得させよや

さあらば、値を取らすべし

如何に、如何に」

との給えば

童ども、我先にと、彼の亀を献げつつ

御前に畏まる

道高、斜めに思し召し

「それそれ、形部」

と、ありしかば

「承り候」と、

金銭を取り出だし

皆、悉く、与うれば

何れも喜び勇みつつ

我が家、我が家へ、帰りけり

 

道高、亀に、打ち向かい

「汝、殺さるべかりしを

我、助け得さするなり

万年を保つべし

早早、放せ」

と、御諚なり

「畏まって候」と、

頓て、浪間へ、放ちけり

亀は、喜ぶ景色にて

浪の底へぞ、沈みける

 

その時、又

夥(おびただ)しき(※立派な)

亀ひとつ浮かみ出で、

磯近く、泳ぎ寄り

道高の御方を三度礼拝し、

それよりも、浪の底へぞ入りにける

 

道高、この由、ご覧じて

「鱗(うろくず)とは言いながら

助けられしを喜びて

我を敬い、帰るよ」と

暫し、感じて立ち給う

 

掛かる所に

遙かの沖を見給えば

柴の雲、ひと叢下がり

舞楽の声ぞ、聞こえける

是は如何にと見る所に

又、夥しき亀ひとつ

仏像を己が甲に乗せ参らせ

程なく、渚へ上がりつつ

彼の仏像を、道高の御前に降ろし置き

人の如くに物言う様

「御身、

我が子の一命を助けさせ給う事

龍王、叡感、浅からず

その報恩に、龍宮の九重(くじゅう)の塔に安置ある

薬師如来の霊像

閻浮檀金(えんぶだごん)の尊体

を、与えさせ給うなり

利益(りやく)新たにましませば

豊葦原(とよあしはら)の宝仏と良きに敬い給いつつ

住吉の宮近く

御堂建立ましまして

信心深く有るならば

二世の願望(がんもう)、成就せん

疎か(おろか)に思い給うなよ 

返す返す」と

言い捨てて、

立ち帰ると見えけるが

虚空に向かい、口よりも

金色の文字を、吹き出だす

 

道高、つくづく、見給うに

 

『しょうき(小亀)

既に、死を免れ

正に龍宮に入りて

恩を報ず』

 

と有る事、現ぜしは

不思議なりける次第なり

 

道高、この由、ご覧じて

「弥(いや)不思議をなし給う」

 

さてその後に

件の亀、波間へ入るかと見えけるが

かの亀、形を引き替えて

仏体と変じつつ

西の空へと上がりしは

有り難かりける次第なり

 

道高、奇異の思いをなし

「有り難し有り難し」と

仏像を守り(もり)参らせ

館へ帰らせ給いけり

今、津守(つも)寺に

崇め(あがめ)られさせ給うなる

瑠璃光如来は、これなりけり

上古も今も末代も

例し少なき事どもやと

貴賤上下押し並べて

皆、感ぜぬ者こそなかりけれ

 

 

二段目

 

その後

権の左右衛門道高は

薬師如来を守り参らせ

急ぎ館へ立ち帰り

別殿に安置あり

良きに敬い給いけり

 

ある時、道高

人々に打ち向かい

「我、両国の主にて

何に付けても、不足なし

殊更、龍(たつ)の都より

如来の霊像、我が館(たち)へ

入らせ給うは

これ偏に、家繁盛の印なり

面々如何に」と仰せける

 

時に、弾正(※森本弾正介友)、進み出で

「御諚の如く、例し無き

霊仏入らせ給う事

誠に目出度き、奇瑞なり

去りながら、かかる尊き

ご本尊を

不浄の在家に御勧請

憚り多く候えば

いちいち次第を奏聞あり

内裏へ献げ給いなば

叡感、尤も限りなく

国、郡(こおり)も拝領あり

弥(いや)御家、栄ゆべし

我が君様」

とぞ勧めける

 

形部(※河瀬の形部正行)、この由聞くよりも

「こは、不覚なり、弾正

君は、村上天皇の苗裔(びょうえい)にてましませば

和泉、河内の両国を

手に握らせ給いつつ

金銀珠玉は、蔵に満ち

誰にか劣らせ給うべき

宝、盛りて入る者は

又、盛りて出ずとかや

斯く豊かなる御身にて

能わぬ(あたわぬ)欲の企ては

人倫の道ならず

不思議に掛かる霊仏の

入らせ給う幸せに

貪欲愚痴の妄念は

一円に振り捨て

平等大恵の慈悲心に 

渇仰(かつごう)怠り給わずば

求めざるに、富来たり

願わざるに、家栄えん

君に縁ある御仏を

御門へ、献げ給わん事

冥(みょう)の照覧、如何なり

この事においては

然るべからず候」と

眉を細めて申しけり

 

弾正、気色を違えつつ

「ええ、愚かなる形部かな

長者も富に飽かずとは

是皆、世俗の詞(ことば)ぞや

出世を望むは

人界(じんかい)の高き卑しき

隔て無し

悪しきを捨て

良き方へ、付かぬは

愚痴の至りなり

君の御意をも窺わず

座敷に人も無き様に

御身一人、物知り立て

耳にも入らぬ諫言は

片腹痛や、ご無用」と

似非笑うてぞ申しける 

 

形部、重ねて

「推参なり、やあ、如何に弾正

心を鎮め慥かに(たしかに)聞け

斯様に申すも、御為(おため)なり

君、仏神の内証に叶わせ給い

龍宮の霊仏、感得まします事

貴賤、羨み奉る

然るに、宣旨も無き先に

所領を貪り給わん為

仏を、禁裏(きんり)へ上げ給わば

人の誹りを如何せん

君、非を犯し給う時、従わざるは、

臣の道

例え、斯様の欲心を

思し召し立ち給うとも

諫め申さん

弾正が、かえって不義を奨めつつ

天下の人口(じんこう)に掛けんとするは、

御分(ごぶん)が身の欲に

仁義を忘れしな

左様に、欲の深きをば、

人とは言わで、

犬猫の類いとこそは、言うぞとよ

不憫さよ」

とぞ申しける

 

弾正、大きに歯がみを無し

「是非の差別(しゃべつ)は、兎も角も、

侍を畜類とは、分限知らぬ、溢れ口

御前にて無きならば

この犬が、差料を

己が口へ差し込まば

中々、其の声(ね)は、

はきたさし(吐き出さじ)

謂わすれば

何処とも無き長鳴きを

する奴めこそ

誠の犬よ、畜生よ」

と、大口、開いてぞ笑いける

 

形部も、今は堪りかね

「刀勝負が、好きならば

出で出で、手並みを見せん」

とて太刀に手を掛け、飛び掛かる

 

定治親子(長尾の玄蕃定治、同一子治親)

押し隔て 、 

「君の御前ぞ

私(わたくし)の遺恨は、

後日の事、なるべし

先ず先ず、鎮まり給え」とて

両方ともに、働かせず

 

道高、つくづくとご覧じて

「如何にや形部、承れ

普天の下(もと)、率土(そっと)の内、

王土にあらずということ無し

然るに、掛かる霊仏を

我、不慮に得たる事

世には隠れもあらばこそ

隠し置かんは、畏れあり

この方より

御所領を望むは

欲にもなりぬべし

上(かみ)を重んじ

指上る(さしあぐる)仏を、

叡感ましまして、

献上を給わらば、

それは、我が身の幸いぞや

生きとし生けるものごとに

富を願わぬ者やある

賢臣ぶりは無益(むやく)なり

先ず、その理非は、指し置きぬ

弾正は、我が前を、憚る所に

正行(形部)は、太刀に手を掛け

我が儘の無礼を振る舞う

奇っ怪なり

向後、出仕すべからず

罷り立て」

と、怒らるれば

 

鬼を欺く(あざむく)正行も

君の御諚に、恐れをなし

すごすごと、退出す

無念なりける次第なり

 

これはさて置き

道高は

「国の警護は、弾正

姫をば、玄蕃(長尾の玄蕃定治)に預くるぞ

 

留守をば頼む、面々」と

かの霊仏を守り参らせ

都を指してぞ上がらるる

都になれば、急ぎ参内ましまして右のあらまし、奏聞あり

 

「誠に、希代(きだい)の尊像を

献ぐること神妙(しんびょう)なり

償(しょう)は重ねて行われん

折節、蝦夷の狄(えびす)ども

勅命を軽んじて

国司の下知に付かざる由

急遽、道高、馳せ下り

国司に力を合わせつつ

退治せよ」

との綸言なり

 

畏まって候と

頓て、用意をなされけり

身内、外様の若殿原

思い思いの鎧(よろい)を着

心心の太刀、刀

(それぞれの意)

得物、得物を引き下げて

我も我もと立ち出でる

 

大旗、小旗、馬印

馬簾、指物、吹き流し

風に任せて、翻るは

吉野・立田の花紅葉(もみじ)

盛りの色に異ならず

 

さて、大将の御装束

何時に優れて、華やかなり

肌には、白き練り絹に

口輪の唐綾、ひっ違え

紺地(こんじ)の錦の直垂に

糸緋縅(いとひおどし)の御着背長

巳(み)の時と、輝くを

肩上、掴んで引っ立て

草摺長にさっくと召し

踊り上がって、高紐掛け

結って上帯、ちょうど締め

九寸五分の鎧通し

馬手の輪形(わがた)に差すままに

一尺八寸の打ち刀

十文字に横たえ

黄金造り(こがねづくり)の

御佩刀(おんはかせ)

足緒(あしお)長に結んで下げ

やうはいとうり(楊梅桃李)(※桜梅桃李:おうばいとうり)の左右の籠手

獅子に牡丹の佩盾(はいだて)に

百段磨きの脛当てし

熊の皮の揉足袋に

白銀(しろがね)の縁金(へりがね)やって

開口高(あぐちだか)に踏ん込うだり(ふんごうだり)

白星の甲(かぶと)に

鍬形打って

猪首(いくび)に着

水色の母衣(ほろ)をさっと掛け

北国育ちの荒馬に

金貝(かながい)の鞍、置かせ

御身、軽ろげにゆらりと召し

御勢、選って(すぐって)三千余騎

歩行(かち)雑兵(ぞうひょう)は、数を知らず

三条通を真っ直ぐに

日ノ岡峠(京都市山科区)へ差し掛かり

東頭(ひがしかしら)に、しずしずと

手綱(たづな)掻い繰り給いしを

群がり立てる、見物人

「天晴れ、器量の大将や」

「さても、由々しき出で立ちや」と、声を揃えて、褒めにけり

 

かの道高の御有様

貴賤上下、押し並べて

感ぜぬ者こそ、なかりけれ

 

 

三段目

 

 

その後、和泉にまします

緑の前、ある徒然の事なるに

女房達に打ち向かい

「いかなる、過世(すぐせ)のこの身にて

母上様には、過ぎ遅れ

父上一人、頼みしに

やがて、帰らんさらばとて

都へ上がらせ給いしに

辛きは、君の宣旨なり

蝦夷とやらんの逆臣(げきしん)を

退治せよとの、勅により

東へ下らせ給う由(よし)

狄(えびす)は猛き(たけき)者と聞く

もし、御手をも負い給わば

自ら、何となるべきぞ

便(たより)波間の捨て小舟(おぶね)

寄辺(よるべ)定めぬ

泡沫(うたかた)の

哀れ、儚き、憂き身や」と

涙に暮れさせ給いけり

 

乳母(めのと)の忍ぶ

見、参らせ

「こは、味気(あじき)なの仰せやな

母上様の御事は

とても、帰らぬ死出の旅

誰か、一人も残るべき

御回向こそ、せんならめ

父上様は、本よりも

武略優れし、御大将

よも、恙は(つつが)は、ましまさじ

由無き事に、御心(みこころ)を痛ましめ給わんより

幸い、折から

住吉の花盛りと承る

いざさせ給え」と

勧むれば

忍ぶ、小桜、その外の女房

御共にて、花の本へと急がるる

 

品良き所に、幕、打たせ

既に、御酒宴、始まりけり

姫君、四方を打ち眺め

「あら、面白の春辺やな

如何で、めがれん(目離れん)桜花

飽くまで、色を争いて

咲き乱れたる糸桜

濡れにし袖の露けきを

干すや緋桜、いとどしく

実(げ)にや、東の果てまでも

人の情けを、江戸桜

若木の花はひと盛り

老いの姿や、姥桜

有るが中にも楊貴妃の

花の色には、誰も皆

深く心や、写すらん

尚、愛らしく見えぬるは

稚児桜ぞと、打ち笑い

膜の内へぞ入り給う

 

掛かる所に

長尾の左門春近は

(※長尾の玄蕃定治の子、治親(はるちか))

予てより、小桜と

互いに心を掛け帯の

結び合わんと、窺えど

辛き、人目の関の戸を

明けぬ暮れぬと、過ぐ(すぐ)の間と

深き心の底意をも

せめて、露程、語らんと

便期(びんき)を窺い居たりけり

 

去る程に、姫君は

花の心に憧れて

硯を平し(ならし)短冊に

一首を連ね

小桜に、

「花へ付けよ」と仰せけり

小桜、短冊給わりて

とある、下枝(したえ)に結び付け

立ち帰らんとする所を

左門、遠目に

ちらと見て

急ぎ、立ち寄り申す様

 

「辛きは、君の心根や

御身に会わん為にこそ

今朝より、安らい候に 

知らず顔なる、御風情

恨めしさよ」

と、ありければ

 

「御理(ことわり)なり

去りながら、妾は、

御身に勝り草(※菊)

葉末(はすえ)の露の偶さか(たまさか)も

相見ることの難ければ

思いの色は岩ツツジ

言わずと、知ろし召されよ」と

さしも、割無く口説くにぞ

左門も、今は、打ち解けて

小桜が手を、しとと取り

 

「構えて、構えて

その心は

千代(ちよ)も変わるな」

「変わらじ」

と、言葉も付けぬ折節に

姫君、これをや、見給えけん

幕の内より忍び出で

二人が後ろに立ち添いて

打ち笑うてぞ、おわします

 

小桜、見つけて、打ち驚き

急ぎ、幕へぞ逃げ入りける

 

左門、大きに動顛し、

手持ちの無きに、漫ろ(そぞろ)なり

梢の花をぞ、数えける

 

姫君、由をご覧じて

「如何にや、左門

自らが、飽かぬ眺めの小桜を

何故(など)手折らんと

するやらん

我にも聞かせぞ」

とばかりにて、打ち笑み給う

御粧い(よそおい)

天つ乙女も及ばじと

左門、心も空になり

御答え(いらえ)は申さずして

 

「この短冊は

姫君様の、遊ばされ候や

御手跡と言い、御噸作(とんさく)

至らぬ賤が口よりは

褒め奉るも、畏れあり 

さは、言いながら

御歌を、眺めし

特に、露ほどの

お言葉にも掛かること

是や誠に

吹く風と、谷の水とし

なかりせば(?)

深山隠れの花の色

如何で、見まじや、優曇華と

聞き伝えしは、これかや」と

御袂(おんたもと)にぞ

縋りける

 

姫君は、差し俯ぶき

「余所(よそ)の梢の習いして

つれなき松に、降る時雨(しぐれ)

濡れたる袖は、小桜ぞ

引き違えしか、現(うつつ)なや

ここ、離せ」と仰せける

 

小桜は、物陰より

この有様を見るよりも

面(おもて)の色を引き違え

するすると走り出で

 

「ああ、はしたなや

姫君様

こは、何事ぞ」と言いければ

いと、面映ゆ気に打ち側み

幕の内へぞ入り給う

左門、面目無気(なげ)にして

傍らへこそ、忍びけれ

 

 

掛かる所に、弾正は

予てより、姫君に

思い入り江の玉柏(たまかしわ)

現るる名は、愛(いと)わしいと思えども

及ばぬ事なれば

言い出すべき縁(よすが)も無く

空しく月日を送りしが

主君道高、奥州へ

御下向の留守なれば

良き折からと

姫君の花見の庭へぞ来たりける

 

御幕近き桜木に

取りても燻るばかりなる

短冊を付けられたり

立ち寄り見れば

 

『余所に見て

帰らん人に 糸桜

はいまつはれよ(這い纏われよ)

枝は、折るとも』

 

と、さも艶やかにぞ

書かれける

 

「疑いも無き、姫君の御手跡なり」

と悦んで

情け無くも、かの枝を

根より引き折り

嬉しげに、打ち眺めては

押し頂き

押し頂いては、打ち眺め

余念無うこそ見えにけれ

 

小桜、驚き、駆け出でて

「その短冊は、姫君様の付けさせ給い候に

何とて、手折り(たおり)給うぞや

粗忽なり」

とぞ、咎めける

 

「何、花を折りたりとて

姫君、ご機嫌、損ねんや

それこそ、望む所なれ

憎しとなりとも

御言葉に掛からん事は

嬉しやな

汝が、差し出、無益(むやく)なり

罷くし去れ(まくしされ)」

と言う所へ

姫君、立ち出で給いつつ

 

「自ら付した(ふした)短冊を

何故(など)情け無く荒らすらん

その上、色よき花盛り

誘う嵐も悲しきに

枝諸共に、手折ること

風よりも猶(なお)

憂き人よ

ああ、狼藉や」

との給えば、

弾正、騒がぬ風情にて

 

「我等は、本より、田夫者(でんぷもの)

無礼は、ご覧おわしませ

先ずそれは扨置きぬ

御姿の妙(たえ)なれば

斯くむくつけの身ながらも

思い乱れて、忍草

露の嘉事(かじ)の情けには

高き卑しき、隔てなし

胸の煙(けぶり)を晴らしてたべ

もし、御承引、無きならば

花に嵐や月に雲

掛かる浮き世に惜しからぬ

命を捨つる上からは

存じる胸の候」と

御袖をむっと取り

思い詰めたる、その風情

苦々しくぞ、見えにける

 

姫君、大きに、仰天あり

「酒に酔い(えい)たか

弾正よ

家の執権蒙る身が

主(しゅう)の娘に戯れは(ば)

如何なる事ぞ、不道(ぶどう)なり

ここを離せ」とありければ

耳にも、更に聞き入れず

 

小桜、見兼ね、つつと寄り

「こは、狂乱か

弾正殿

緩怠(かんたい)なる振る舞いや」と

小刺刀(こさすが)にて

姫君の御袂を、すん(ずん)と切る

 弾正、腹に据え兼ねて

「出で、妨げを為す奴に

天罰を知らせん」と

 

心元を二刀(ふたかたな)

続け様に刺し通す

左門、慌てて跳んで出で

「最前より、木陰にて

委細を見届け候が

とこう言われぬ、悪逆かな

いかでか以って、逃さん」と

太刀、ひん抜いて

打って掛かる

 

「推参なる、小冠者」と

しとど、受けて切り結び 

火花を散らして、競り合いしが 

左門が運や、尽きにけん

小桜が袂に足を引きかけ

かわ(かっぱ)と伏す

お腰も立たず、討ち太刀に

二つになりてぞ、失せにける

 

掛かる所へ、玄蕃は、

 (長尾の玄蕃定治)

姫君のお迎えに

只、一人、来たりしが

この由を見るよりも

 

「事を正すに及ばこそ

我が子の敵、浅まし」と

走り懸かって、ちょうど討つ

二打三打、戦いしが

玄蕃は、本より、大力(だいりき)

殊に、一子は討たれたり

思い切りたる事なれば、

踏み込み、踏み込み薙ぎ立てられ

さしもの弾正、叶うまじと

後(あと)をも見ずして、逃げて行く

「汚し、何処へ逃さん」と

飛ぶが如くに、追っかけしに

弾正が、若党二人

後(あと)より来たりしが

懸け隔て、むずと組む

 

玄蕃は、憎い奴原と

二人を左右に掻い掴み

力に任せて、投げ捨てれば

微塵になりてぞ、失せにける

その暇に弾正は

行方知れずになりにけり

 

玄蕃は、怒れる眼(まなこ)より

涙を流し

小桜と左門が、死骸を取り隠し

姫君を守護し奉り

我が家を指してぞ帰りける

定治が心の内

無念なりとも中々

申す斗はなかりけり

 

 

四段目

 

その後

長尾の玄蕃定治は

姫君の御共し

急ぎ、我が家に帰りしが

互いに目と目を見合わせて

泣くより外の事は無し

 

玄蕃、心を押し鎮め

「河瀬形部は、

御勘気故、行方知れずなり候

君は遙かの遠国(おんごく)へ

御出陣のお留守に

弾正が悪逆を

誰かは、鎮め申すべき

きゃつは、眷属多ければ

ここに渡らせ給う由

聞くと、等しく

押し寄せん

都へ上がらせ給いつつ

御祖父(おおじ)三条の大臣殿を

お頼み

いちいち次第を奏聞あり

弾正めを

八つ裂きの行い給え」と

諫めつつ、御乗り物に乗せ参らせて

夜半に紛れて、宿所を出で

都を指してぞ、上りける

 

去る程に、弾正は

姫君を取り失い

行方を尋ねしに

定治、お供仕り

都へ上がると、仄(ほの)聞いて

手の者、数多(あまた)借り催し

人々(※定治一行)よりも駆け抜けて

阿倍野が原に待ちけるが(大阪市阿倍野区)

すわや、ここぞと、おっとり巻く

 

玄蕃、驚き

「盗賊か

悪しく懸かって、怪我すな」

と、太刀ひん抜いて

姫君の御輿に立ち添えば

弾正、大音上げ

「森本弾正、ここにあり

命惜しくば、姫君を捨て

立ち去るべし」

とぞ申しける      

定治、獅子の歯がみをなし

 

「さては、森本弾正めか

手並みは定めて、忘するまじ

微塵になさん」

と、飛び掛かり

 

真っ先へ、進んだる

ふけい(武芸)の五郎兄弟を

弓手馬手へ、薙ぎ伏する

信太の八郎、隙間も無く

押し並べて、むっと組む

玄蕃、本より大力

手の下に取って伏せ

首掻き切って

からりと捨て

立ち上がらんとする所を

弾正、透かさず(すかさず)

ちょうと討つ

玄蕃、高腿(たかもも)撃ち落とされ

かわとまろべば

無残やな

首、宙に、討ち落とす

 

今こそ、心易しとて

乗り物に打ち向かい

「斯様に、骨を砕き

意地を尽くすも

只、偏に

御情けを受けんため

この上は、兎も角も

御心根を明かされよ

存ずる胸の候」と

さも、憎さ気(げ)にぞ申しける

 

姫君は、胸塞がり

涙に暮れておわせしが

 

「さてさて

己は、畜類にも

遙かに劣れる 奴めかな

相伝の主(しゅう)なれば

身を捨て、忠を尽さんに

色に耽りて、咎も無き

人を若干(そこばく)滅ぼして

我に憂き目を見せながら

今の言葉は、何事ぞ

身は徒(いたずら)になる迚も

如何で、汝に従わん

我、汝にてあるならば

何故(など)、安穏に置くべきや

如何なる罪の報いにて

女と生まれ来つらん」と

声も惜しまず、泣き給う

 

弾正、腹に据え兼ねて

「愚痴口上(こうじょう)なる女かな

我に靡かぬものならば

所望無くとも、助けはせじ

まして、望みの上からは

いで、いで、暇、取らせん」と

 

労しや、姫君の御髪(おぐし)を

掻い掴み

乗り物より、引き出だし

雪のようなる御胸を

三刀まで、刺し通せば

目眩れ(めくれ)心も消え消えと

遂に空しくなり給う

 

乳母(めのと)驚き

「こは、如何に

天命知らぬ悪人や」と

弾正に取り付けば

彼処へ、かっぱと突き倒し

「己も共に、行けや」とて

既に、こうよと見えし時

不思議やな

大の虎、現れ出で

弾正に飛び掛かれば

介友、大きに肝を消し

後をも見ずして、逃げにけり

 

乳母は、夢の心地して

御死骸に抱だき付き

呼べど叫べど、音も無し

「ああら、恨めしや

世の中に、神や仏は、ましまさぬか

花の様なる姫君を

邪険の刃に掛かる事

思えば、思えば、浅ましや

惜しからぬ身の自らに

せめては、替えてたべや」とて

流涕焦がれて、嘆きしは

諸事の哀れと聞こえけり

 

時に不思議や

御死骸

忽ち、光明赫奕たる

仏体と変じつつ

御声、新たに、告げ給わく(たまわく)

 

「我はこれ

龍宮より、この国へ渡りたる

薬師瑠璃光如来なり

姫に、恙は無きぞとよ

猶、行く末を守らん」と

 

件の虎に、召さるれば

異香(いきょう)四方(よも)に薫じつつ

虚空へ上がらせ給いけり

 

姫君、乳母は手を合わせ

有り難し、有り難しと

御迹(あと)、遙かに、伏し拝み

扨しもあるべき事ならねば

物憂き、阿倍野を立ち離れ

辿り辿りと歩まるる

 

(道行)

 

人目を忍ぶ、旅なれば

菅の小笠に、竹の杖

又、夜深くも有明の

月を縁(よすが)に立ち出でて

都の方は、其方(そなた)かと

松の浜より、眺むれば

(大阪府泉大津市松ノ浜)

梢を渡る群(むら)カモメ

磯打つ浪に、驚きて

飛び連れ立ちて、鳴く音には

仮寝の夢や、醒めぬらん

涙は、雨と降る里も

流石、慣れにし所とて

後(あと)、住吉の神垣や

願いを懸けて、御注連縄(みしめなわ)

寄る辺何処(いづく)と、知らばこそ

苔の細道、踏み分けて 

遠里小野(大阪市住吉区および堺市堺区)の露深く

思う心は、急げども

余所には、如何で,春の浦

潮路(しおみち)暗し、雨衣(あまごろも)

田簑の島に、(大阪市北区中之島)

漁る(あさる)立つ

声も高師の浜、行けば

(大阪府高石市の大阪湾に面する海岸)

ひと叢、葦の萌え出ずる 

末に、胡蝶の眠ぶれるは

憂きが内にも、萎らしや

我を、誰か、松虫塚(大阪市阿倍野区)

名のみ世に降る小町塚 (王子町4丁目3街区)

只、徒に、朽ち果つる

身の行く末は、押し並べて

ここに、戸板の煙立つ

余所の哀れに、袖濡れて

心細さは、限り無し

 

四天王寺の鐘の声

諸行無常の響きには

花の姿も散りぬれば

後は、芥(あくた)となるものを

思い知らずも、惑う蝶

他し(あだし)人こそ恨めしき

有すが山(※茶臼山)の彼方(あなた)なる

大江の岸に、宿りして

(大阪市中央区、大川(旧淀川)南岸)。

雲井に見ゆる生駒山

下ろす嵐の激しくて

笠にはらはら、音するは

露か、木の葉か、村雨か

いとしみじみともの侘し

嘆き暮らせし、夜半も早

明け方近く、なるままに

向こうを見れば、これやこの

昔ながらの里とかや

すいた(吹田)に三ほうし(法師)

(大阪府吹田市:三法師は渡し)

名所、名所を打ち眺め

時雨(しぐれ)もいたく(甚く)森口(守口市)の

宿を過ぐれば、程も無く

左田の宮にぞ着き給う(佐太天神宮)

かの姫君の御有様

世の中の、物の哀れは

これなり、これなりとて

皆感ぜぬ者こそなかりけれ

 

 

五段目

 

その後(のち)

良薬、口に苦く

忠言、耳に逆う(さかう)とは

河瀬形部が、身の上とかや

 

君の御勘気、蒙りて

和泉の国をば、立ち離れ

渚の里(枚方市)に

縁ありて、草の庵を引き結び

親子三人、挙(こぞ)り居(い)て

詮方、涙と諸共に

侘しき月(日)を送りけり

 

故郷も、さのみ遠からねば

弾正が悪逆故

姫君、行方知れざる由

仄かに聞くよりも

 

「こは、死なしたる、世の中かな

我、不審の身ながらも

余所に聞かんな

君臣の礼を知らぬに、似たるべし

その上、斯様になりたるも

皆、弾正めが、業なれば

一先ず、国へ立ち帰り

弾正めを討ち捨てて

姫君の御行方を

尋ねばやとは思えども

女房、これを知るならば

共に、行かんと、慕いなん

幼き者も有るなれば

足手まといに、何かせん

密かに出でん」

と、思案して

日も暮れ方の事なるに

女房、外へ出でたるを

よき折りからと

一通に、細々と書き置きし

立ち出でんとする所に

花若、袂に縋り付き

 

「何処(いづく)へ行かせ給うらん

母上もましまさぬに

何と、捨て置き給うぞや

我をも連れさせ給えや」と

涙ぐみてぞ申しける

 

形部、この由、見るよりも

「おお、道理なり

去りながら

我は、叶わぬ用ありて

近き辺りへ行くぞとよ

母も只今、帰るべし

構えて、母が来ぬ内は

表へ出でる事なかれ

大人しやかに、留守をせよ

さもあらば、何にても

望みの土産を得させん」と

様々、すかし、宥むれば(なだむれ)

若は、あどなく悦びて

 

「その義にてあるならば

美しき人形を、数多、調え(ととのえ)給われ」と

その品々を望みける

 

形部、喜び

「神妙(しんびょう)なり

流石、父が子程ある

やがて、帰らん、さらば」とて

立ち出でんとせし時に

女房、里より帰りつつ

 

「妾が、帰りをも待ち給わず

幼き者を捨て置いて

暮れに及んで、けしからぬ

何処へ行かせ給うらん

覚束なし」

とぞ尋ねける

 

形部もさすが、詮方無く

「今は、何をか、包むべき

主君道高

奥州の狄(えびす)退治の下向の後(のち)

弾正、逆意(ぎゃくい)を企て

姫君を追い失い

己に組みせぬ朋輩をば

皆、誅伐と、聞いてあり

我、埋もれ(むもれ)木の身ながらも

未だ、この世にありながら

君へ不忠の逆臣(げきしん)を

など、安穏に置くべきや

国へ立ち越え、狙い寄り

弾正めを討ち捨て

首尾良くば、立ち忍び

姫君様の御行方

尋ねばやとの所存故

さてこそ、只今、出でるなり

 

去れども、敵(かたき)は、多勢なり

為果(しおお)せん事有り難し

我、討たれぬと聞こえなば

御身は、未だ、若木の花

色ある内に、人にも見え(まみえ)

あの若を守り(もり)育て

敵を討たせて給わるべし

名残惜しや」とありければ

 

女房、涙と諸共に

「ああ、恨めしや、形部殿

二世と交わせし睦言の

その移り香は、変わらねど

御身は、心の変わりつつ

いかなる人にも、見え(まみえ)よとや 

それは、つれなき、仰せかな

姿は、女に生きるとも

心は、男子(なんし)に、劣るまじ

多き敵(かたき)のその中へ

一人、お越し候に

自ら、如何で、留まらん

火の中、水の底までも

只、諸共」とばかりにて

縋り付いてぞ、泣き給う

 

形部、眼を苛(いら)らげて

 

 「ええ、未練なる女かな

侍の妻となり

斯様の別れの有るらんとは

予ても、思い寄らざるか

例え、某、送るるとも

力を付けんが道なるに

何ぞや、武士の門出に

泣き顔、見する奇っ怪さよ

罷り退れ(まかりしされ)」と怒らるる

 

女房は、打ち恨み

「由、此上は、力無し

死出の山にて

待ち申さん

追いつき給え」と言う儘に

夫(つま)の刀に手を掛くる

形部、暫しと、押し留め

 

「左程に、思い切るか

健気なり

去りながら、事の道理を慥かに(たしかに)聞け

御身を伴い行くならば

あの若を如何にせん

この理(ことわり)を聞き届け平に停まれ」

と、ありければ

女房、涙を抑えつつ

 

「稚(ち)の内よりも、捨てられて

父にも母にも添わぬ身も

命目出度き者もある

ましてや、彼は、五つなり

運に任せて、捨て行かん

早、御出で」と

勧むれば

 

形部、答えて

「不覚なり

我々、討たれてあるならば

路頭に彷徨い、餓え死ぬか

又は、敵(かたき)へ聞こえなば

如何なる憂き目に、合いもせん

その上、

河瀬形部こそ

幼稚の汝を見苦しく

捨て置いたりと言われては

屍(かばね)の上の恥ぞかし

御身も共に行くべくば

あの若を先立て

心易く、討ち死にせん

如何思う」と言いければ

 

女房、呆れ果て

泣くより外の事は無し

 

形部見て

「愚かなり、君の為には

親だに討つ人、世の習い

其れ、我が子、これへ」

と言うままに

腰の指添え(さしぞえ)するりと抜く

 

花若、驚き

「あら、恐ろしや

母上様

今日よりしては、友達と仲良くして

遊び候らわん

障子の紙をも破るまじ

父上様の御機嫌を

良きに、侘びさせ給えや」と、

震い(ふるい)震いぞ、泣き居たる

 

母は弥(いよいよ)、涙に暮れ

「果報拙き(つたなき)、この若や

世が代の時は

御乳乳母(おちめのと)数多(あまた)の者に、傅(かしづ)かれ

いかばかり由々しく育ちしに

さこそ、なからめ

親の手に掛けて

空しくなさんとは

いささか、思わざりしもの

斯程に、薄き縁ならば

父とも母とも、知らぬ時

病(やもう)の床にも

失せずして、今の思いを

懸くるよ」っと

声も惜しまず、叫びける

 

形部も悲しくて

頻りに(しきりに)涙は、零るれど

心弱くて、叶わじと

妻の膝より、抱だき取り

刺し殺さんとしたりしが

玉の様なる、この若に

何処へ(いづくへ)刀を立つべき

と、

持ったる刀をからりと捨て

倒れ伏してぞ泣きにける

 

若は、途方に、忘却し

殺さんとせし、父なれど

親子の仲の割無さは

さまで、憚(はばか)る体も無く

幼気(いたいけ)らしき手を出だし

父が、涙を、押しぬぐい

 

「如何なる事の候えば

斯く、嘆かせ給うぞや

のう、父上」と

小子(しょうし)気(げ)に

涙と共にぞ、諫めける

 

掛かる哀れの折節に

編み戸をしきりに、叩きつつ

女の声にて、慌ただしく

 

「ここ、開け給え」

と、叫きける

形部、この由、聞くよりも

「夜中(やちゅう)なるに、何者ぞ

覚束なし」と有りければ

 

「後より、追い手の近付くに

影を隠して給われ」と

の給う声も、果てざるに

誰とは知らず、七八人

提灯持たせて、駆け来たる

 

「さて、さて、憎っくい女かな

阿倍野ヶ原にて、正しくも(まさしく)

殺せと思いしに

不思議に、都へ上ると聞く

方々、尋ねしに

見つけたるこそ、嬉しや」と

やがて、姫君

掻い掴み、

「今が最期」

と言う声に

 

形部、庵を飛んで出で

男の子が、腕を取り

「事の分かちは知らねども

夜中と言い、我が前にて

粗忽の事は、せさせじ」と

先ず、姫君を引き退くる(のくる)

 

郎等共、こは如何にと

討って掛かれば

女房は、長刀取って延べ

切り散らす

形部、見て、打ち笑い

「易しき奴原が振る舞いや

出で出で、手並みを見せん」とて 

捕らえし、男の子を、どうと投げ

編み戸の柱を引き離し

手先任せに、薙ぎ立つる

 

何かはもって、堪る(たまる)べき

風に木の葉の散る如く

後をも見ずして、逃げ行きける

 

さて、立ち帰り、見てあれば

初めの男の子は

強かに(したたかに)胸板を打ちにけん

しばし、目眩れて(めぐれて)

起き得ぬを、取って押さえ

女房に提灯、上げさせ、良く見るに

憎しと思う、弾正なり

 

「天の与え」と悦んで

傍なる古木へ締め付けつつ、

「のう、只今の上﨟は

何処に(いづくに)渡らせ給うぞや

敵(かたき)は生け捕り候ぞ

これこれ」

と、呼ばわれば

木陰に忍びおわしれる

 

姫君、乳母は、悦び

急ぎ、駆け出で給いけり

形部は、早くも見つけつつ

 

「姫君様か」

「形部か」と

思わず知らず取り付いて

先ず、涙をぞ流さるる

 

その時、形部、申す様

「のう如何に、姫君様

あの弾正めが

臣として、君に刃(やいば)を立てたりしは

八逆罪の懲らしめに

せめては、御手に掛け給い

御本意、遂げさせおわしませ

是にて、遊ばし候え」

と、長刀を奉る

 

思えば、憎さも憎しとて

長刀、取り延べ

ふつふつと

両の腕(かいな)を打ち落とせば

苦しげなる、風情にて

目、口を動かし、戦慄く(わななく)を

形部見て

 

「さも、そうず

今こそ、思いしつつらん(知りつらん)

阿鼻の苦艱(くげん)はこれよりも

猶、絶え難くあるべきなり

閻魔のしょう(城or庁)へ急げとて

首打ちに討ち落とし

喜び勇んで立ったりける

この人々の心の内

嬉しきとも中々

申すばかりは、なかりけり

 

 

六段目

 

 

その後、姫君

形部夫婦の者共

乳母(めのと)忍、御共にて

都へ上らせ給いつつ

母方の、御祖父(おおじ)

大臣殿の御方へ

斯(か)くと案内ありければ

折節、父の道高も

逆徒追伐(ぎゃくと、ついばつ)

事故無く、先ほど

これへ御入りある

 

「ご対面、ましませ」とて

頓(やがて)て、奥へぞ、招じける

皆々、立ち出で給いつつ

御悦びは、限り無し

 

道高、形部を召され

「御分が忠義、抜群なり

この度の恩賞には

弾正が、領分

本地に相添え、給わる」と

世に有り難き、御諚なり

形部、余りの忝さ(かたじけなさ)只、

謹んでぞ、居たりける

 

掛かる所へ、勅使あり

道高、何事やらんと

急ぎ、じょうだい(上内)なされけり

勅使、笏(しゃく)を取り直し

 

「道高が献げたる

閻浮檀金(えんぶだごん)の尊像を

龍神の告げに任せ

住吉の傍らに

一宇の御堂を建立し

急ぎ、安置致すべし

導師は、源空(法然)上人

さて又、奉行は、道高に仕れ

との綸言なり

早早、用意致せ」

とて、勅使は、内裏へ上がらるる

 

去る程に、道高は

畿内の番匠、召し集め

住吉の社より、北に当たって

御堂を建て

神宮寺と名付けつつ

入仏供養(にゅうぶつくよう)行わるる

導師源空上人は

香華(こうげ)を供え

浄土経三部、妙典(みょうでん)高らかに

読誦あるこそ、有り難けれ

 

時に不思議や

住吉の宮の方より

金色の光、輝き

慈(いつく)しき童子一人(いちにん)

景向あり

お声を上げて、告げ給わく

 

「この頃、疫癘、流行りつつ

人民、遍く(あまねく)悲しめり

是を救わん本尊には

五大力にしくは無し

出でや、住吉明神の神徳の有り難さ

薬師如来の本願の

衆病悉除を見せん」とて

 

一つの絵像を引き広げ

仏前に懸け給う

貴賤老若、手を合わせ

つくづく拝み奉るに

 

五大力の尊体を

さも、凄まじく、顕せり

髪、空様に、生え上がり

御口、耳まで裂け

金剛憤怒の勢いは

如何なる悪魔、厄神も

畏れぬべくぞ見えにける

上人、随喜限り無く

 

「和合の利益、本よりも

今に始めぬ事ながら

げにもませつ(?末世)

の奇特なり

とてもの事に

御本地の、妙なる貌を顕して

衆生を済度、ましませ」と 

念じ給えば、忽ちに

五大力のお姿

五智の如来と変じつつ

八十種好の御粧い

光を放って見え給う

十方の世界より

無量の菩薩、景向あり

如来を囲繞ましますは

有り難かりける次第なり

 

その時、童子、の給わく

「この、五大力菩薩は

則ち、五智の垂迹なり

先ず、中尊は、大日如来なり

右の上は、西方安養(あんにょう)浄土に型取りて 

則ち、阿弥陀如来なり

同じく下は、南方なり

宝生如来、立ち給う

左の上は、北のほうじょう(方丈)

しゃつくわう(釈講)の釈迦世尊

同じく下は、東方の

浄瑠璃世界の阿閦仏(あしゅくぶつ)

皆、ほしつよう(?法性)の台を(うてな)出で

塵に交わり給う事

 

現世にては、諸々の病苦を除き

未来には、無為安楽の宝刹へ救わん為の、御方便

愚かに思う事なかれ」と 

 

詔(みことのり)ましまして

仏前の狛犬(こまいぬ)に打ち乗り給えば

不思議やな

木像なれど、忽ちに

四つ足を自由に働きて

雲井に打ち乗り、上がりしが

童子、又、告げ給わく

 

「我々は、これ

一切の邪魔の障礙(しょうげ)

を打ち払う(はろう)

大聖(だいしょう)不動明王」

 

との給う声と、諸共に

お姿を引き替えて

迦楼羅炎(かるらえん)の内よりも

光明を輝かし、虚空へ上がらせ給いけり

 

貴賤僧俗、渇仰の頭(こうべ)を傾ぶけ、礼拝す

有り難しとも中々

申す斗はなかりけり

 

右、この本は

武蔵権太夫直伝の正本を以て

是を写し、板行するものなり

 大伝馬三丁目

正月辰日

鱗形屋孫兵衛