天智天皇
説経正本集第三(41)
天満重太夫
武蔵権太夫
武蔵猪太夫
元禄五年(1692年)申の三月
版元不明


初段

さてもその後
じんじゃ(思無邪:しむじゃ)の三字は、
じんばい(神拝)のくわんほう(がんぽん:元本)
夫婦兄(怖不敬:ふふけい)の三字は、祭典のえいよう(至用:しいよう)
神(じん)を祀ること
神(かみ)のいますが如くすと言えり

ここに、斉明天皇と申すは、
舒明天皇の御后(おんきさき)
女体なれども、十全の位に就かせ
一天四海、浪も静まり
戸、鎖(さ)さぬ御代と、治め給う
皇子二人、おわします
第一の宮は、さかめ(逆目)の皇子(架空)
その丈、一丈、色浅黒く
御目、逆様に切れ
偏に、夜叉の如く
御心、あくまで、放逸に
生まれ付かせ給えば
御父の御勘気を蒙らせ給えども
御后、御訴訟故
崩御の刻、御赦免あり
二条の館に、押し込められ
折々の参内なり

二の宮は、葛城(かつらぎ)の宮(中大兄皇子)
御姿、いと艶やか(あでやか)にましまして
慈悲第一にましませば
この君へ、位を譲らせ給うべき由
相、極まり
諸卿、こぞって、斎(いつき)、傅き(かしづき)奉る

時の摂政、左大臣有ずみ(純)
右大臣 是ずみ(純)(架空)
天下を納め給えば
民、安全と聞こえけり

いで、その頃は
天智元年(662年)
諸卿残らず召され
宣旨、出でされける様は

「如何に、面々
来る十六日
葛城の宮へ、位を譲り申すべし
それに付き、諸卿(しょぎょう)
の内に
眉目(みめ)貌(かたち)優れたる姫あらば
后にそなえ申すべし」
との宣旨あり

右大臣、進み出で
「こは、有り難き、宣旨かな
左大臣(の)姫こそ
三国一の美人たる由
聞き及びて候
然るべし」
と、奏聞あり

その時、逆目の皇子
進み出で
「誠に、これは、さもあらん
その義ならば、絵に写させ
叡覧に入り給い
優れたるに、定め給うべし
さあらば、絵師
かのをか(金岡)と申して
老体なれば、何れの奥へも出入りし
姫達の姿をも、見知り申し候えば
彼ら親子に、仰せ付けられ
然るべし」と
奏聞あり
女院、げにもと思し召し
金岡を内裏に召され

「如何に、絵師
汝、諸卿の息女
見知りと、聞きてあり
絵に写し申すべし
それそれ」
と宣旨あれば
吉田の少将、承り
熊野の御王に、贔屓あるまじき証文
金岡親子仕り
御暇(おいとま)申し上げ
宿所を指してぞ、帰りける

さて、左大臣殿
天下安全の御為に
白鬚の明神に、ご参詣とぞ聞こえける

これは、さて置き
逆目の皇子
急ぎ、二条に立ち帰り
郎等共を召され

「今日、左大臣の娘を
葛城が后に添えなんとの
御母上の宣旨
某が、申し変えて
諸卿(しょぎょう)の姫を
金岡(かのおか)に
絵に写させ、叡覧あるべしと
詮議、極まりたり
去れば、我、左大臣の姫
「花照」(はなてる)を内々
所望せしかとも
有純、用いず
この度、絵師を頼み
花照を悪女に書かせ
疎ませ
その後(のち)、我、手立てを以て、手に入れん
先ず先ず、金岡を召せ」
と、急ぎ、御前に召され

「汝、この度の、絵の内に
左大臣の娘を、悪女に書きなし申すべし
我、思う子細あり」
金岡、承って
「勿体なくも、誓詞を致し候上は
この義においては、お許し候べし」
と、立たんとするを
皇子、押し留め

「何、叶うまじとは、推参」
と、首引き抜かんと、怒からるる

絵師、大に動転し
「この上は、力無し
兎も角も」
と申しける

皇子、気色を変え
「それそれ」とありければ
金岡、力及ばず
姫を悪女に描きたりける

皇子、喜び
「それそれ」と
巻き絹、百疋(ひゃぴき)給わりぬ

金岡、「有り難し有り難し」と
戴きしが、
不思議や、誓詞のお罰を受け
父は、五体竦めば(すくめば)
金若丸、両眼、忽ち、盲(しい)たりけり

皇子ご覧じ、
「そのままに、さし置くなば
口ききなん、獄屋へ
押し込め置け」
畏まって候と
頓て、押し込め置きにけり

かかる所へ、花照姫の
御乳母(めのと)左近の尉
姫君の絵図を持ち
御殿に上がり奉る

皇子(※逆目)、
「それ、此方へ」と
頓て、絵図を受け取り
その後、件(くだん)の悪女の絵図と、取り替え
御殿に掛けさせ
さて、姫君達を
局々に備え置き
絵図に合わせて
いちいち、叡覧なされける

去る間、葛城の宮
紫宸殿(ししいでん)に御出(ぎょしゅつ)なり
「あら、慈しの(いつくしの)
色絵かな
先ず、一番に描きたる絵は
その名も高き、橘の義春(よしはる)殿の一人娘
背、健くやか(すくやか)にしなやかに、容顔美麗の御姿
又、有るべきと思われず

第二の絵図は、花盛り
二八に足らぬ、その姿
秋の月とも例えんか
御眦(まなじり)は夕陽の
弓張り月にも勝りたり
唐の青磁と申せども
これには如何で勝るべし
それを、誰(たそ)と見てあれば豊原の息女なり

さて、三番目は、有恒(ありつね)の第二の姫
容儀、気高く、艶やかに
驪山(りさん)の春の匂い水
肌(はだえ)の露は、色めきて
目元気高き、眉曇り(ぐもり)

さて、その次に、掛けし絵は
伏見殿の妹に、紅葉(もみじ)の上、今、咲き出でる初桜
色めく姿は、芳しく(かんばしく)見るに心も停まりけり

さて、五番は、吉田の姫
明石の前
翆(みどり)の黛(まゆずみ)細やかに
丹花の唇、慈しく
心、言うも及ばれず

六番に、紀乃(きの)康宗(やすむね)が娘、唐崎の前
言うに、優しく、萎らしく
御物腰の優しさは
初音に立つる鶯(うぐいす)の
空に降れにし心地せり
かの玄宗が思い人
楊貴妃と申せども
中々、これには、よも勝じ(まさじ)と
御簾も几帳(きちょう)もざざめきにけり

遙かの末に掛けられし
左大臣の花照姫
葛城の宮を初め諸卿

「是こそ、聞き及ぶ三国一の美人
如何様に、絵を描けん」と
絵布(きぬ)を取りて
見てあれば
案に相違し、二目と見られぬ姿なり
一座の公卿、興を醒まし給えば
葛城の宮も、とこうの宣旨もましまさで
御殿に入らせ給いけり

その折節、花照姫の乳母
梅田の左近、
御殿に、相詰め居たりしが
この由を、見るよりも
皇子(逆目)の前に罷り出で
頭(こうべ)を地に付け

「さてさて、これは存知よらざる次第かな
恐れながら、最前、君に差し上げし絵図とは
何れの(いずれ)絵を変わり申さん
御詮議、然るべし」
と謹んで申し上ぐる

皇子(逆目)、元より悪心の事なれば
忽ち、色を変え
「推参なり、絵図の変わりたらんとは
心得ぬ言い事
そこ立ち去れ」
と、怒(いか)らるる

左近は、
「立腹の段、至極せり
これは、君の御企み(たくみ)と覚えたり
それを如何に申すに
君は、内々、花照姫にお心を寄せ
度々(たびたび)一通を遣わされ候えども
世の憚り故、姫君、ご返事も無かりし由
某も、密かに承りて候
それ故、逆鱗に思し召し
斯様の企みと存じ候」
と、会釈もなくぞ申しける

逆目、今は堪えかね
左近が髻(たぶさ)を取って押し伏せ
「さては、姫が返事無きも
己が仕業と覚えたり
出で、思い知らせん」
と、首、ふっつと捻切り
「この上は、有純が、館へ行き
姫を引っ立て行くべき」と
駆け出し、駆け出し給えど
人々、左右に取り付いて

「こは、はしたなきお心」と
しきりに諫め、留むれば
力及ばず、獅子の怒りをなし
牙を噛み、当御所指して、帰られける

かの皇子の勢い
勇猛血気の太子やと
貴賤上下、押し並べ
感ぜぬものこそなかりけれ


二段目

その後(のち)、左大臣有純
葛城の宮の御名代とて
白鬚の明神へ参詣あり
百味(ひゃくみ)の御供(ごくう)
現ぜらるれば
社人、楽人(がくじん)、糸竹(しちく)を奏し奉る
その時、右近の大夫、
六根清浄、切って払い
中臣、三種の大祓、悉く終わり
やがて、御神楽、舞いらする

既に、御神楽、過ぎ行けば
不思議や、社壇の下よりも
白髪たる翁現れ
其方(そなた)に供え置きたる
百味の御供(ごくう)を、いちいちに、食しけり

社人を初め
「正しく(まさしく)、白鬚明神の、顕せ給うかや
あら、有り難や」と三拝す

中にも、左大臣
にっこと、打ち笑い
「それ、神は、慈悲を以て
正体とし、敬(けい)を以て、食(しょく)とす

この有様は、心得ず
如何様、狐、貉のなす所
誰かある」と、仰せける

家の執権、金輪の五郎輝基
生年十八歳
畏まって、すんど駆け寄り
取って押さえ

「真っ直ぐに申すべし
さなくば、首掻き落とさん」
と申しける
その時、老人、震い々申す様

「誤ち給うな、金輪殿
我を、見忘れ給うかや
某は、絵師の金岡にて候
此の度、御門(みかど)にて
美人揃えの絵姿を
某に、誓詞をもって描くべしとの
宣旨を蒙ぶり候所に
逆目の皇子、ご息女、花照姫に
お心を掛け、叶わぬとて
嫉み給いて
悪女に描けと御頼み候
(否)と申せば、身の大事
是非無く、悪女に描き候えば
倅(せがれ)は、忽ち両眼癈(し)い
某は、斯くの如く、五体竦んで候を
獄屋に押し込め
剰え(あまつさえ)、倅を行方知らずに追い出され
又、某をば、この裏に捨てられ候
今日三日が間、食事を、絶やし候えば
勿体なくは、存ずれども
さてこそ、御供(ごくう)を食し候
お許し候え」
と、涙を流し申しける

左大臣、ご覧じて
「さては汝は、金岡な
されば、神は正しきの頭(こうべ)に宿り給う
汝、邪(よこしま)に組みし
天罰たり
何程、悪女に描きなすとも
生まれ付いたる容儀の
悪しくなるべき謂われ無し」
去りながら、証拠の為に
神主、右近の大夫(だいぶ)に
預け給う
それよりも、有純は、
神主に暇を乞い
既に、下向と聞こえけり

これはさて置き、内裏には
女院を初め奉り
過ぎし、悪女の絵写しを
大に逆鱗ましまして
如何あらんと、宣旨あり

逆目の皇子、聞こし召し
「宣旨の如く左大臣
あの様なる悪女を
己が、威勢に、体を掠め(かすめ)
美人と奏聞すは、上を軽しめ
末の逆心、これならん
世の正道に任せ然るべし
又、悪女の絵をば
京中に曝し
恥を与え然るべく候」
と、奏聞あり

女院、げにもと思し召し
兎も角もとあり
畏まって、頓て武士を召され

「方々は、白鬚へ行き
有純が下向を待ち受け
上総の国へ流すべし
又、悪女の絵をば
京都に曝すべし」
畏まって、五條の橋に曝せしは
情け無うこそ見えにける

此処に、哀れを留めしは
有純の御娘、花照姫にて
物の哀れを留めたり
七歳の御年
母上には、過ぎ遅れ
又、父上は、流され給うと聞こし召し
夢現とも弁えず
涙に暮れてましますが
心に思し召さるるは

「これと申すも
絵師金岡が、悪女に描きし故ぞかし
せめては、その絵を一目見て
とにも如何にも、ならばや」と
密かに、館を忍び出で、
五條の橋へぞ、急がるる

橋にもなれば、人、数多集まりて
誹り、眺めて居たりけり
姫君、余りの悲しさに
するすると走り寄り

「あら恨めしや
悪女と描かば、それまでよ
なんぞや、姫が名を記し
筆の荒み(すさみ)の恨めしや」
と、そのまま其処に倒れ伏し
声を上げてぞ泣き給う

掛かる所へ、葛城の宮、行幸あり
御輿より、かの悪女の絵を
ご覧じて
「返す返すも、疎ましや」と
眉を潜めて、通らるる

姫君、今は是までと
御輿の元へ走りより
「のう、葛城の若宮様
自らこそは、有純が、一人娘
花照姫にて候なり
如何なる人の嫉み(そねみ)にて
かかる悪女と描かせつつ
叡覧あるこそ悲しけれ
又、自らが父上に
何の咎ばし候えば
流させ給うは、情けなや
父上、返して給われや」と
口説き立ててぞ泣き給う

若宮、急ぎ、輿より降り給い
姫君の御手を取り
「さては、御身は
花照姫にてましますか
我は、夢にも知らぬ故
この絵を誠と思いつつ
疎みけるこそ、後悔なれ
何様、子細の候べし
後日に、詮議申し付け
御身の心を慰めん
許してたべ」との給いて
面映ゆい気にぞ、見え給う

掛かる折節
郎等の金輪の五郎は、
有純に別れ、館に帰り(帰れど)
姫君は、ましまさず
不思議に思い
悪女の絵を、心掛けて来たりしが
急ぎ、御前(おまえ)に畏まり
逆目の皇子に、絵師の金岡
頼まれし次第、いちいち申し上ぐる

葛城、大に驚かせ給い
「さては、左様にありけるか
このこと、内裏へ帰り
御母上に、奏聞せん
先ず、此方へ」と仰せある所へ
屈強の荒男の子、七八人
真っ黒の装束、苧屑頭巾(ほくそずきん)引き被うで

「如何に、汝等
その女に、子細あれば
此方へ渡せ
さなくば、おのれ、目に物見せん」
と、罵り(ののしり)けり

金輪の五郎、是を聞き
「さもあれ、己(おのれ)ら、何者ぞ
これに渡らせ給うは
一天の御君なり
雑言は推参なり
察するに、己らは、洛中の盗賊原と、覚えたり
一人も余すまじ
我こそ、左大臣が後見に
金輪の五郎輝元と言う者なり
覚悟せよ」と、申しける

時に、大男の子、上なる頭巾
かなぐり捨て
「我を知らずや、忝くも
舒明帝が一ノ宮、逆目の皇子
我なり
某を差し置いて
一天の君とは、恐らく
けんごん(建言)の内には覚えず
されば我、女院より
位を承り、即位せり
その上、その花照姫を
連れんが為に、是まで来たりたり
素直に、姫を渡さんや
さなくば、葛城共に
討っ取らん
返答申せ、申せ」と詰め掛け給う

葛城、これを聞こし召し
「さては、左様にましますか
おお、我は元よりそし(しょし:庶子)なれば
位の望みは、さらさら無し
只、一人(いちにん)の女院様へ
孝行尽くさせ給うべし」と
御涙に咽(むせ)ばるる

されども、邪険の逆目の皇子
ちっとも哀れむ気色も無く
「いやいや、汝を生け置いては
我が妨げとなるべし
あれ、討ち取れ」
と、大勢、一度に切って掛かる

金輪の五郎、心得たりと
渡し合い、ここを先途ぞ、戦いけり
御共の侍ども、その暇に
若宮、姫君諸共に
ひとつ輿に乗せ参らせ
逃げんとせしを、
川風の悪右衛門、土手の小弥太
掛け来たり
輿掻きどもを、追い散らし
御輿を奪い取り
行かんとせし所へ、
輝元、早く、立ち帰り

「こは如何に」と
かい掴んで、首、いちいちに引き抜き
辺りを見れば
百姓の脱ぎ捨て置きし
簑笠あり

良き幸いと喜び
宮、姫君に着せ申し
畦道を落とし奉り
扨又、その身は、輿に乗り
さあらぬ体にて居たりけり

掛かる所へ、皇子を始め
六七人、駆け来たりしが
この由を見るよりも
輿掻きどもが、宮、姫を
捨て置きたりとて、喜び
宿所へ帰りけり

館になれば、皇子
広庭に掻かせ、輿を開いて見てあれば
中より、金輪の五郎、つつっと出で
仁王立ちにぞ、立ったりける
満座の人々、呆れ果て
物をも言わず、立ち騒ぐ

皇子、ご覧じ
「さもあれ、己は、何時の間に
乗り代わり、
骨折りどうなせし事よ
早や、立ち去らぬか
不敵の者、疾く疾く」
と、怒りける

五郎、聞きて
「何、骨折りどうなとは
曲も無し
承れば、自らと
二世の語らいあらんと聞き
是まで、参り候いしに
早くも変わる飛鳥川
淵瀬の境、見せ申さん」と
太刀の柄に、手を掛くれば

皇子怒って
「それ、討っ取れ」と
大勢、どっと掛かりける
輝元、思い切りたる事なれば
からからと打ち笑い

「あら、事々しの青侍
参りぞう」と
言うままに、三方車
四つ手切り
東西南北、稲妻切りに
はらりはらりと、切り伏せたり

さてまた、皇子は怒りをなし
「異国は知らず、我が朝において
某に向かいて、推参は、覚えず」
と、走り掛かって、組み給う
互いに、聞こゆる大力
揉み上げ揉み上げ、競り合いしが
されども、五郎は、疲れ武者
逆目の皇子、新手にて
嵩(かさ)に掛かって、弱腰を
打ち絡みに引き掻け
彼処へ取って伏せ
頓て、縄をぞ掛け給い
さて、大庭の大奥へ絡み付け

「おお、結構なる有様や
我を掠(かす)めし天罰
立ち所に当たりたり
去りながら、今より心を翻し
向後(こうご)、我に傅(かしづ)かんや、
如何に々々」と仰せける

輝元、承り
「あら、愚かなる、言い事や
日本を給わるとも
御身には従わじ
しかれども、葛城宮を哀れみ
位を渡させ給いなば
従うべし」と申しけり

皇子、いよいよ立腹あり
「憎っき、己が言い事や」と
長刀を閃かし(ひらめかし)
両の腕を欠け給い

「さあ、是にても
命や惜しくば助けん
如何に、如何に」とある

五郎、聞きて
「是とても、助け給わらば
助からん」と申しけり

又、両足を打ち落とし
「是にては」
と言いければ

五郎、大に怒って
「やあ、日本一のうつけ者
我、両手を切らるるとも
命だにあらば、
おのれを、一度は
蹴殺さんと思い
さてこそ、命惜しきとは、答えたり
両足(りょうそく)まで、打ち落とされ
何の命、惜しからん
片紙も早く、首を取れ
例え、空しくなるとても
魂(こん)なこの土へ留まって
終には、本望、遂ぐきぞ」
と眼(まなこ)を見出し、怒りけり

皇子、ご覧じ
「それ、物な言わせぞ
首を刎ね、獄門に掛けよ」
畏まって候と
頓て、首を打ち落とす

皇子、喜び
「斯様なる、剛の者の骸(むくろ)を、
そのまま置くならば
如何なる事をやしい出さん」と
散々に、切り散らし

「今は、思い置く事無し
この上は、内裏へ上がり
女院を取りて召し込め
我、一天の主(あるじ)と仰がれん、
勇めや、勇め、汝ら」と
踊んどり上がり、勢い掛かって
見えにけり

かの、天竺に聞こえたる
斑足(はんぞく)太子、つかの神、
提婆達多も、斯くやらんと
落ちぬ(※恐れぬカ)者こそなかりけれ

 

三段目

去る程に
ここに、哀れを留めしは
粟津が原(滋賀県大津市)の傍らに
金岡丸重光とて、絵師の名人、住みにけり
一年(ひととせ)、御門にて
美人揃えの絵合わせに
逆目の皇子に頼まれ
空絵を描きし天命に
その身は、両眼、暗みつつ
年頃慣れし、筆を捨て
人の情けを袖に受け
夫婦諸共、憂き年月を暮らせしが
流石、無念に思い
「何卒、両眼、開き
舅の敵(かたき)なれば
皇子を一太刀、恨みん」と
毎日、当所、権現へ(粟津山王権現)
歩みを運び、念じける
又、今日も、参らんと
女房に近付き

「今日も、権現に参るなり
何とやらん、いつよりも
心細く思われて、名残惜し
しかし、門出、祝わん
盃たべ」
と申しける
女房、心得
銚子、盃、出だしける
金岡、盃取り、一つ受け
さらりと干し
女房に差しにけり
女房、一つ汲み

「目出度う、頓て、帰らせ給え」とて
門の外まで送り
妻(さい)は、奥にぞ入りにけり

無残やな、重光
誰も、頼りは無い竹の
杖に節(よ)を込め、突き出でる
既に、神前になりしかば
いつもの如く、祈誓し
御前を下向して
粟津が原に差し掛かれば
既に、その日も入相の
黄昏時になりにけり
げに、もの凄き、森陰を
通る折節
堤の上の木の間(このま)より
皺(しわ)びれたる、声音(こわね)を上げ

「これこれ、道行く人に物言わん」
と、呼ばわりけり

金岡、不思議に思い
声に従い、辿り着き、大音声

「斯く、荒々(こうこう)たる野原(のばら)にて
我を呼ばわるは、覚え無し
この森の野干なるか
盲人なりども、侮りて、怪我ばしすな」
と申しける

その時、土手に掛かりし獄門
目を開き
「おお、ご不審は尤もなり
これは、左大臣が後見
金輪の五郎輝本と言いし者なり
然るに我、逆目の皇子が手に掛かり
非業の死を遂げ、
斯く、獄門に掛かりてあり
其の無念、骨髄に通り
魂魄、頭(こうべ)に懲り固まりて
瞋恚(しんい)を焦がし候
去るに依って、御身を頼りたき事あり
頼まれ給わんや」
と、申しける

金岡、聞きて、暫く案じ
からからと打ち笑い
「さては、いよいよ、狐狸(きつねたぬき)に紛れなし
そもやそも、昔より
獄門の物言う例し
さらさら無し
悪しく依って、怪我するな」と
言い捨て、行かんとすれば

獄門、尚も声を上げ
「これこれ、暫し待ち給え
それ一念は、無聊(むりょう)に宿れり
まったく、虎狼野干でなし
御身は絵師の名人
一念に描いたる龍
水を撒くが如し
然らば、獄門も、如何で物を言わであるべきや」

重光、げにもと思い
「さて、某に、頼みたき事は如何に」

五郎、聞きて
「去れば、余の義にあらず
逆目の皇子は、我が為には
主君の敵(かたき)
しかも、御辺も、舅の敵
我、本望を遂げんと思えども
貌(かたち)なければ、思うに叶わず
去れば、不思議の道あり
御身の首切りて、我に胴を貸し給え
我が首を付き合わせ
敵を討って、その後は
その胴を返すべし」

重光、聞きて
「何とも心得難し
去りながら、我の望みし大願
思えば、今宵、叶いたり
望みに任せ申すべきか
去りながら、若(もし)も継がれんその時は
我が首をも、失わせ
御身の首も殺さいで
虻も捕らず、蜂も捕らず
両損(ぞん)ばし
なさるるな
但し、有り難き、実りやあり」

輝本、聞いて
何か扨と、言うより早く
唱えける
「如是我聞、仏及衆生(ぶっきしゅじょう))
是三無差別(ぜさんむしゃべつ)、汝も我も隔て無し」(華厳経)

金岡聞きて
「色即是空 空即是色
万法一仏の因縁たり
飢えたる人に、肉を与えしも仏体
是は、凡夫の一仏、極まる所なり
後に残せし我が妻の
さぞや嘆かん不憫さよ
南無阿弥陀仏」
と観念し、
腰の刀、するりと抜き

「如何に、金輪殿
只今、胴を参らする
よっく首継ぎ、本望を遂げ給い」
と、えいと言うて掻きければ
首は、前にぞ落ちにけり

その時、獄門、目を開き
土手の上より、降りけるが
不思議や、胴へ乗り移り
左右の手にて押し付け

「あら、心安しや」と
頭(ず)を振り、頭(こうべ)を叩き
扨(さて)金岡が首を持ち
飛ぶが如くに、立ち出ずる

掛かる所へ、重光が女房
夫(おっと)の迎えに
農人(のうびと)数多、引き連れ
薙い鎌(ないがま)、てんでに持ち来たりしが
五郎を見て、

「さてさて、などして、遅く
帰り給う」と
松明(たいまつ、振って見てあれば
夫(つま)にはあらで、容(かたち)ばかりは、
我が夫(つま)なり

「面(おもて)、抜群に違いたり
不思議さよ」と申しける

五郎、聞きて
「ご不審は、道理なり
首が替わりて候なり
御身の夫(つま)、重光は
これにあり」と
包みし首を差し出だす

女房、驚き
「さては、己は、盗賊よ
我が夫(つま)を失い
着類(きるい)を取りしと覚えたり
それ、討って取ってたべ」
と、言えば

若き者共、心得たりと犇めき(ひしめき)けり
五郎、聞きて
「やあ、狼藉給うな
是には、深き、様子あり
心を鎮めて聞き給え
我は、金輪の五郎とて
有澄の執権なりしが
逆目の皇子の悪にて
この所に、獄門に掛かりしが
光重、幸い此処を通りし故
相対いたし、
逆目を討たんその為に
胴を借りて候なり」

農人ども、
「尚、心得ぬ次第かな
昔が今に至るまで
人の命に、借り入らひ(居)
我々を侮(あなど)り企み
只、打ち殺せ」
と犇(ひし)めきけり

五郎、聞きて
「尤もなり、尤もなり
去りながら、誤って
重光が命まで、捨て給うな
如何に、如何に」
と申しける

女房、聞きて
「不思議ながらも、我が夫は
名誉の絵師にて、ましませば
何にても、描いて見せよ」

五郎、聞きて
心得たりと筆を染め
制札の裏に、カラスを二羽
描きければ、忽ち、羽ばたきいてぞ、立ちにけり

女房、始め人々
「誠に、疑う事なし」と
かの首に、抱だき付き
声を上げてぞ泣きにけり

五郎、見て
「道理なり、断りなり
これも、我が敵を討たん故
本望を達しなば
重光、安穏に返し申すべし」

女房、今は、是非も無し
「構いて、構いて、安穏に
我が夫、返し給え」とて
里人も、伴い、宿所を指して
帰りけり

それよりも、輝本は、葛城の御行方を尋ね
勅に任せ、逆目の皇子を討たんと
足に任せて、尋ねける

是はさて置き
逆目の皇子、二の宮を、
無き身となし
母の女院に参り
内裏を受け取り
我が儘に位せんと
わざと、腹巻き、大太刀履き
郎等ども、引き具し
内裏を指し、この由、斯くと、奏聞あり

『母上は、聞こし召し
先ず、一旦、位に就かせ
その内、葛城の宮を尋ね出だし
天下太平に、治めばや』と
思し召し

「如何に、皇子
この上は、太子とても御身一人(いちにん)
さらば、位を譲らん」と
三種の神器に至るまで
逆目の皇子に譲らるる

皇子、大きに会得して
「是こそ順(じゅん)
我を差し除け、二の宮に
位を譲ること、天の咎めもあるべし
この上は、葛城を捜し出し
頭(こうべ)を刎ね、曝さん
如何に、如何に」と申さるる

女院、余りの悲しさに
御簾よりも、まろび出で
「何と、二の宮を捜し出し
害せんとや
腹から、二人(ににん)の内なれば
葛城と和睦し、母に孝行尽くしてたべ」

皇子、からからと打ち笑い
「それ、天子とは
天の子なれば、父も母も候わず」
愛想なげに、申さるる

女院、袂(たもと)に縋り付き
「何、自らを、母とも親とも思わぬとよ
如何なる月日に、汝が様なる悪人の
我が体内には、宿りけん
幼き時には、父帝に
勘気を受けしを
流石、親子の不憫さに
様々、申し直し
今、この言を聞くものよ
生きて、思いをせんよりも
汝が手に掛け
害せや」と

声も惜しまず、泣き給う
女官達は、縋り付き
御簾の内へ入り奉る

皇子見て
「由無き、母の嘆きかな
この上は、母をも追い出し
栄華に暮らさんも、我次第
由無し、由無し」
 
と、独り言言い、入り給う
恩を仇にて、報ずるとは
かかる事をも申すらん
逆目の皇子の心の内
勿体なしとも中々
申す斗はなかりけり

 

四段目


去る程に
物の哀れを留めしは
葛城の君にて
諸事の哀れを留めたり

花照姫、諸共に
九条辺(へん)に忍びましますが
逆目の皇子
厳しく、捜し給う故
今は、都に、あられねば

「如何に、花照
此上は、いつまで
命、長らえん
御身諸共、差し違え
この世の憂さを、晴らさんぞや
いざ、此方へ」と

既に、こうよと、見えし時
姫君、御手に、縋り付き

「こは、勿体なき御事や
斯く申せば
自らが、命惜しきに候えども
先ず、案じてもご覧ぜよ
君、既に、十全の位には、ましまさずや
今こそ、斯くはましますとも
御命だにましまさば
終には、御世に、出で給うべし
幸い、自らが所縁(ゆかり)の者
伊勢の磯部に(志摩郡旧磯部町)
かんのうねめ(神野采女)と申して
頼もしき、神職候
これを頼りに、伊勢路へお忍びあれかし」
と涙に暮れて、おわします

葛城、げにもと思し召し
「さらば、諫めに任せんぞや
去りながら、この姿には、叶うまじ
伊勢参に事寄せん
此方へ来たり給えや」と
旅の装束なされける

《以下道行》

労しや、葛城の宮、妻諸共に
かとり(糸編に兼:かたおり)に掴(つか)む紅(くれない)は
隠せど色も漏るるとは 
誰が(たが)言い置きし、言の葉や
淀の川辺に、まかて(罷出)しおり(枝折?)
さっと春雨、ひと時雨(しぐれ)
濡れにし女、垣間見て
さをな(?棹無)車のやるせなく
恋いにし袖の浪、漕がば
渡せる舟に、棹刺して
妹背の仲は、二重屏風の楫枕
漕ぎ寄せて、つるつると、
出(い)だいた弓手を、見れば、竹生島
結ぶの神と、聞くからは
二人の仲の割無さを
守らせ給えと伏し拝み
馬手は、堅田の浦伝え(滋賀県大津市)
焦がれ焦がるる、蛍火か
よしや、我が身は、朝顔の
花の都を出でしより
今日を限りと逢坂山
厳(いわお)の松の木の間より
漏れつる月のかつらき山(葛城山)
鐘も微かに、入相も
耳に触れつつ、殊勝なり
梢遙かに、眺むれば
かせ(木偏に上下)の簓(ささら)や
浪の鼓(つづみ)
とうとうとう、とうと
打っては、さっと引き
物凄まじき風情かな
磯のカモメが羽(は)を休め
おのが友、
のう、のんほ、のふ(?囃言葉カ)
いよいよ、磯千鳥
石部(滋賀県甲賀郡)、水口(みなくち:旧水口町)、越え過ぎて
霧立ち昇る夕間暮れ
稲葉に揺られて、露の玉
哀れ、儚き、虫の音や
我を問うかと思われて
いとど心が、石地蔵
六道(りくどう)能化の御利益(りやく)
げに、有り難き、御誓願
心涼しき、鈴鹿山(三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境)
明けぬ暮れぬと、行く程に
早や、明星が清めの茶屋(※伊勢への道にあった)を打ち過ぎて
神に祈りは宮川(がわ)や(※三重県南部を流れる)
渡りかねたる、世の中の
思いも依らぬ、伊勢参り
外宮、内宮、朝熊岳(あさまだけ:三重県伊勢市・鳥羽市)
社、社を伏し拝み
漸く(ようやく)急げば、今は早や
磯部の浦に着き給う


去る程に、姫君は
「如何に、若宮様
これに見えし館こそ
尋ぬる人の住家(すみか)なり
自ら、参りて、伺わん」と

急ぎ立ち寄り、斯くと案内乞い給う
その折節、采女(うねめ)殿
榊の前と申しける姫君の御手を取り
庭へ出で給いしが
この由をご覧じて

「あれは、何者ぞ
連れて参れ」
と仰せける
承り候と、若侍、走り出で
連れて、御前に出でにけり

采女ご覧じ
「見れば、汝は、やんごとなき
女房として、如何なる故に
我が門外に来たるぞや
語り給え」
と、申さるる
姫君は、聞こし召し

「粗忽ながら、この館は
神野采女殿のお館には
ましまさずや
自らは、都左大臣有澄が
一人娘、花照姫と申さるる」

采女は、驚き、近く立ち寄り
「何、有澄の姫君かや
名は、先だって聞きつれども
逢うたる事も候わず
さて、何として、是へは、来たり給うぞや」

姫君は、聞こし召し
「斯様斯様の御事にて
自らが、兄上を伴いて
是まで、尋ね参りたり
情けを掛けて給われ」と
涙に暮れて仰せける

采女、驚き
「さては、その有澄殿
無実の罪に、沈み給うか
某、夢にも存ぜぬなり
頼みて来たり給うぞ、嬉しけれ
疾く疾く」
とありければ

姫君、嬉しく思し召し
急ぎ、帰り
葛城君に近付き

「自ら、君の御事を
妾の兄上と、申し入れて候えば
その分、お心得給うべし
先ず、此方へ」
と打ち連れ
御前に出で給う

采女、対面なされ
「よくも、御入り候や
我は、御身の父上とは
親しき者にて候えば
如何で見捨て申すべし
これに、留まりおわしませ
先ず先ず、休息候え」と
奥の出居入り参らせ
よく、労り給いたり

去ればにや、葛城の御宮
言うに優しき御容(かたち)
見る人、心を移しつつ
迷わぬ者こそ、無かりけれ

その折しも
采女殿の姫君は、
葛城の御姿を、見るに
心もうかうかと
早や、恋い風に身を悩み
今を限りと、伏し給う

女房達は、驚きて
急ぎ、采女に参り
この由、斯くと申しける
采女、大に驚き
急ぎ、枕元へ寄り
「如何に、榊の前
心は、如何に」
と、の給えども
更に、答え(いらえ)はなかりけり

采女、余りの悲しさに
「こは如何に
女房共、これほど疲れ申すまで
知らせぬ事の悲しや」と
抱だき付いてぞ、泣き給う

かかる所へ
葛城の宮、姫君と打ち連れて
急ぎ、御前(おまえ)に来らるる
若宮、仰せける様は

「さてもさても、
難儀の御事や
幸い、某、名誉の薬を持参せり」
と、御口へ入れ給えば
忽ち、起き上がり
宮の御手に縋り付き

「薬よりも、何よりも
二字欠落(※御身)の姿の恋しや」
と、抱だき付いてぞ泣くばかり

采女も、流石、差し合いにて
物言わずして、おわします

女房達は、押し分けて
諫めて、左右へ分けにけり
葛城も、花照姫の気を兼ねて
差し俯いて(うつぶいて)ましませば

花照姫、堰(せき)かねて
言わねど、色に明らかに
顔に、紅葉を引き散らし
胸打ち急かれ見えにける

その時、采女、申さるるは
「如何に、兄弟の人々
親の身として、斯くと申すは如何かと存じ候えども
我が姫、御身を恋い慕い
斯様に悩み候なり
この上は、我が婿にいたし申すべし
又、妹の花照姫は
如何なる方へも、縁に付け申すべし
今宵、夫婦の盃あれ
それそれ」
とありければ

女房は、銚子、土器(かわらけ)
出だしけり
父は、心得、盃を
榊の前に取らすれば
姫は本より、葛城を
深くぞ思いよる(寄る:撚る)糸の
親の許せし、妻(つま:端)結び
心に余る嬉しさを
包みかねたる有様は
何に例えん方も無し
去れども、望む事なれば
盃、取り上げ、少し汲み
葛城に、差し給う

花照姫は、是を見て
胸塞がり、心急き
『こは、口惜しや
自らが、目の前にて
我が夫と盃させ
これが、生きてあらりょうか
今は、妾(わらわ)が夫(おっと)よ妻(つま)よと名乗らんか
最前、兄御と、致しし事
名乗らば、今更、言いも帰らず』
と、案じ煩うその風情

宮も、その色、ご覧じ
榊が、差いたる盃を受けもやらで
おわします
采女、気に掛け

「何とて、遅(おそ)なわり給う
急ぎ、榊に、差し給え」
宮は、今は、是非も無く
土器取り上げ、榊の前に差し給えば
姫の心の内
胸打ち急かれ、悶えつつ
紅紛う(まごう)顔の色
詮方なくぞ、見えにけり

采女は、知らで
「目出度し、目出度し
神明のお陰にて
花婿を設けたり
さぞ、花照姫も、嬉しからん
夫婦は、寝屋に入り給え
姫は、これにましませ」と
奥を差してぞ入り給う

宮も力無く
榊の前と打ち連れ
寝屋の茵(しとね)に、入り給う

姫君、尚も、胸急かれ
羽抜けの鳥の如くにて
有るにも有られず、寝もせず
夜半(よわ)を明かさるる
姫君の心の内
物憂かりとも中々
申し斗はなかりけり


五段目


去る程に
既に、その夜も更け行けば
労しや、花照姫
一人(ひとり)寂しき寝屋の内
涙の床も、憂くばかり
余りの事の物憂さに
榊の前の寝屋に寄れば
ささやく声音の嫉ましや(ねたまし)

「我が肌慣れし、葛城の
外には、解かぬ下紐(ひぼ)の
憎くや、榊の髪長く
結ぶ契りの、腹立ちや
所詮、今宵、忍び出で
磯部の浦へ身を沈め
この世の炎(ほむら)を休めん」と
御書き置きを、書き留め
内海(うちうみ)指して出で給う

是をば知らで、葛城の宮
心に染まぬ紅(くれない)の
衣(きぬ)引き担ぎ、夜もすがら
花照の御事ばかり思い込め
涙に暮れておわします

榊の前
君の心の勇まねば
御枕に立ち寄り
心強くも下紐の
結ぼれらしき、常陸帯(ひたちおび)
「打ち解け給え」
と、口説かるる

葛城は、聞こし召し
「仰せは、さてに候えども
我、大神宮に、百日の大願あり
それまでは、待ち給え」

榊の前、耐えかね
「さては、妾を疎み
斯くは仰せ給うぞや
この上は
思いに沈み、死し去りても
生き替わり、死に替わり
一度は、思い知らせん」
と、妻戸を開き
次の一間を見給えば
花照姫の書き置きあり
開きて見れば
始め終わりを書きて有り
榊、今は、胸を開き

「さては、宮の靡き(なびき)給わぬこそ
御理(ことわり)
由無き
妾が心故、姫の御身(おんみ)を失わん
此上は、自ら追いつき
留めばや」
と思し召し
後を慕いて、急がるる

斯くとは、知らで、葛城の宮
枕を上げ、見給えば
榊の前は、ましまさず
さて、心易しと立ち出で見給えば
花照の書き置きあり
開いてみたもうより
宮、夢とも更に弁えず
内海指してぞ、急がるる

彼処(かしこ)になれば
此処彼処(ここかしこ)を見給うに
とある柳に
小袖、あり
引き下ろし、見給えば
花照姫、榊の前の小袖なり

さては、二人(ににん)
身を投げ、空しくなりし
悲しやと
彼の小袖を胸に当て
顔に当て
声を惜しまず、泣き給う

掛かる所に
采女殿、この由を聞き
驚き、見給うに
我が子の小袖と見るからに
しばし、消え入り給いしが
落つる涙の暇よりも
小袖の下端、見給えば

「何々、此の度
妾が縁組み成りたるは
葛城の御君(おんきみ)
忝くも、十全の御位(おんくらい)
舒明皇(じょめいおう)の第二の宮にておわします
花照姫とご夫婦なるが
逆目の皇子の悪逆故
是まで忍び給うなり
世の憚りを思し召し
仮初めに、兄妹と仰せあり
知らで、妾が添いし故
恨みて、淵へ身を投げ給う故
妾も身を投げ候なり
此上は、御宮を
良きに労り給うべし」

采女、大きに驚き
「さては、左様にましますか
勿体なき御事
兎にも角と
知らせましまさば
掛かる憂き目は
し給うまじ」
と、涙に暮れておわします

葛城の宮
「此上は、何をか残さん
去りながら
生きて詮無き憂き身
共に、身を投げ果つべし」
と、駆け出で給うを、采女
御袂に縋り
「勿体なし勿体なし」と
留め申す所に

衣冠正しき、旅人
三人来たり
「その二人の者こそ
某、方便をもって
助け置ける」
とて
「さらば逢わせん
此方へ」
とて
三人の翁、二人の姫を渡さるる

葛城、采女諸共に
するすると走り寄り
これはこれはと斗にて
喜び涙は堰あえず

その時、翁三人
「我はこれ
天照神(あまてるかみ)
春日、住吉、三社(じゃ)なり
その身の行く末
百王百代と
神託新たにましまして
忽ち、貌(かたち)を変え
雲井遙かに上がらるる

人々、奇異の思いをなし
虚空を三度礼拝あり
有り難しとも中々
申す斗はなかりけり


六段目

去る程に
既に、その夜も、明け方の事なるに
沖を遙かに見給えば
流人の舟と、打ち見え
牢輿に(を)乗せて、沖を遙かに吹かせ行く
葛城、怪しくご覧じて

「あれに、逆目の皇子が郎等
稲瀬の七郎、大将にて
水手(すいしゅ)、梶取(かんどり)見えにけり
何様、子細あらん」
と、思し召し御声を上げ

「それなるは、稲瀬にて無きか
我こそ、葛城の宮」
と仰せける

稲瀬、承り
「さては、宮にて御座候か
これは、御母、斉明帝
皇子の宣旨にて
沖の嶋へ流し候
御身、頓て、斯くの如くならん
何処へも、早々、落ちさせ給うべし」

葛城、大きに驚き
「さては、母にてましますか
少しの内、舟を寄せ
名残を惜しませよ」
との給えども
更に、いなせ(否諾)もあらばこそ
耳にも更に聞き入れず
舟を速めて乗りにけり

掛かる所へ、不思議やな
白鷺、数多飛び来たり
農人(のうにん)ども、
脱ぎ置きし菅笠を咥え(くわえ)
流るる舟の先へ飛び
咥えし笠にて、煽りけり(あおり)これ、
鵲(かささぎ)の始まりなり

誠に神の誓いにや
舟は磯部ぞ着きにけり
守護の武士ども腹を立ち
「幸いなれば、葛城の宮を生け捕らん」と
我先に飛び上がる

既に、こうよと見えし所へ
何処より来たりけん
金輪の五郎、駆け来たり
七郎を掻い掴み
舟梁に打ち付くれば
微塵になりて、失せにけり
残りし者共も、肝を消し
海の中へぞ、飛び入りけり
死する者、多かりけり
その暇(ひま)に、牢輿破り
母上を奪い取り
御悦びは限り無し

宮、ご覧じ
「さて、珍しや、金輪
正しく打たれたると
聞きつるに、不思議さよ」
と仰せける

五郎、承り
「我、獄門に掛かり候えども
無念骨髄に通りし故
金岡が胴を借り
是まで参り候なり
この上は、(逆目の)皇子を
滅ぼし、見せ申さん」
と、行き方知らずに失せにけり

これは、九月の事なるに
秋風、激しく吹き来たれば
采女、百姓の積み重ねし
刈り干したる、稲藁を
敷かせ奉る
葛城、ご覧じ
「勿体なし、稲葉は、世界の元なり
例え、このまま露に打たるるとも
この藁を敷かん、恐ろしや」
と、一首の歌に書くばかり

『秋の田の 刈り穂の庵の
苫をあらみ 我が衣手に
露に濡れつつ』

と、遊ばし給えば
人々、感じ奉る

母上、
「掛かる尊き(たっとき)宮に
位を譲らで、あるべきか」
と、天智天皇と改め
ご即位あるこそ、目出度けれ

然る折節、右大臣
伊賀の国より
御迎いに参り奉り
天皇、母上、誘い
伊賀の国へぞ入り給う

逆目、この由聞くよりも
「未だ、勢(せい)の付かざる
その内に、絡め取れ」
と、言う所へ
金輪の五郎、清涼殿に
仁王立ちに立ちてあり
逆目、見給い

「おのれめは、我が手に掛け
正しく討ちしもの
ええ、心得たり
試さんと、参りぞう」
と、言うままに
此処を先途と戦いしが
さしもの皇子も弱り果て

「ええ、是まで」と
我と首を掻き落とす

去れば、この首
火炎を吹いて、飛び巡る
掛かる所に、不思議や
日月現れ、白羽の矢
左右より飛び来たって
遂に、首を、射落としける

掛かる所へ
天皇、左大臣を召し返され
右大臣諸共に
大勢、引き具し給う所へ
金輪の五郎、出で向かい
右の次第を語り
お暇(ひま)を申し受け

それより、金岡が
女房を訪ね、
「約束違えず、参りたり」と
首を相添え、持参する

不思議や、この首
目を開き、
「やや、暫く、五郎殿
御身の陰にて、親の敵を討ったれば
今は、成仏遂げてあり
我、盲目の事なれば
ありて甲斐無き身なれば
その身、そのまま、忠孝励まれよ」
と、雲井遙かに昇りけり

人々、奇異の思いをなし
五郎に、二万町を給わり
五郎を改め
細井の形部と召され
天皇、内裏に移らせ給い
千秋万歳、目出度しとも中々
申す斗はなかりけり

右、この本は
天満重太夫
武蔵権太夫
武蔵猪太夫
直の抄本もってこれを写して板行するものなり
元禄五年 申の三月吉辰