かたりもの 八太夫会   web千年文庫


熊野之御本地(ごすいでん)


熊野之御本地
説経正本集1(角川書店)横山重
東大図書館所蔵 寛永 江戸版
 
初段
さてもその後
なんえんぶだいふだらく (南閻浮提補陀落) 
大日本、王城(おうじょう)より南
紀伊の国に大神(だいじん)まします
則ち、熊野権現と申し奉る
誠に厳重殊勝にして
御めぐみ久方の
四方(よも)の外まで
あまねく利生を施し
衆生の願いを見て給う
その古(いにしえ)を尋ぬるに
中天竺(なかてんじく)
摩訶陀(マガダ)国の大王にておわします
御名(おんな)を「善財王(ぜんざい)王」と申し奉る
御(おん)果報、目出度くましまし
無量の宝、飽き満ち
方、七里づつ
四方二十八里に内裏(だいり)を造らせ
回り八里に築地(ついじ)を突かせ
がんもん(雁文カ?)を開け
庭には金銀の砂(いさご)を敷き
紫宸殿(ししんでん)、清涼殿を初めとし
数の殿殿(でんでん)玉を磨き
甍(いらか)を並べ造られたり
さて、第一の臣下(しんか)に
農美(のうみ)の大臣重高(しげたか)
小久見(おぐみ)の中将兼光(かねみつ)
その外、一万の臣下
十万人の殿上人(てんじょうびと)
帝都を守護し奉る
さて、千人の后(きさき)を斎い(いわい)
昼夜の御遊覧、暇(ひま)はなし
誠に、聞き及びたる
寂光(じゃっこう)の都 
喜見城の楽しみも 
かくやらんと思うばかりなり
しかりと言えども
御世を継がせ給うべき王子とてましまさねば
これのみ、嘆かせ給いける
ここに、末の御后(おんきさき)
千王女と申せしは
容顔、誠に麗しく(うるわしく)
あたりも、輝くばかりなれば
御門(みかど)ご寵愛限りなく
わきて(分けての連用)、ときめき、給いける
されば、この女御(にょうご)と申すは
八歳の春より観世音を信じ
毎日三十三巻(がん)の普門品      
怠らず、経(きょう)し給う神徳(じんとく)にや
御懐妊とぞ聞こえける
大王、御感(ぎょかん)ななめならず
この女御に打ち添い給えば
残る女御の御憤り(いきどおり)を
かねて、思し(おぼし)召さるるにや
内裏より西、一里隔て
千丈の松原という山の麓に新たに殿を造らせて
「ごすいでん(五衰殿)」と名付け
女御を移し参らせて
大王、これへ御幸(ぎょこう)有りて
ご寵愛は限りなし
このこと、なおも隠れなく
后達、集まり給い
「安からぬことどもかな
いとどさえ、このごろは、
大王様、我々を疎み(うとみ)果てさせ給い
ひたすらにましますに
まして、王子誕生ならば、我々が内裏の住まいは
有り甲斐候わじ
いかにもばかり、事を構え
誕生ならざるその先に
「ごすいでん」を失うべし
まず、神に祈らんか、仏にや申さん」と
口々に申されしは、
浅ましゅうこそ聞こえける
中にも、蓮華夫人(れんげぶにん)と申す后(きさき)
おっとって申さるるは
「ここに、並びの国に
あと、四十年先、四十年、八十年を
鑑みる相人(そうにん)あり
彼を召して、占わせ
その上にて、相人を深く頼み
「ごすいでん」を呪詛(じゅそ)せさせ申さん」と
さかさかしく(賢しく)申さるる
この義もっともしかるべしとて
かの相人をぞ召されける
博士(はかせ)内裏に伺候する
「いかに相人、「ごすいでん」の懐妊は、
王子か姫宮か占い申せ」
相人、承り、やがて占方を開き、考えて
「さても、めでたき御ことや、王子にてましますなり、
米(よね)宝(たから)と言う文字を
左右(さゆう)の手に握り、
ご誕生の明日より、百年間、世界安堵し、
三歳の御時(おんとき)見神 出で 
七歳にて東宮に立たせ
十歳(じっさい)の御時は、
唐土天竺を掌(たなごころ)に納め給う
誠に、類なき王子なり」
と申し上ぐる
后達、聞こし召し
なお、妬ましく(ねたましく)おぼし召し
「恨めしき算(さん)の表(おもて)や
王子、位に就き(つき)給わば
我々は有り甲斐もなく
何となるべき、転(うたて)やな 
いかに、相人、この上は、
「ごすいでん」、王子諸共に
呪詛し参らせよ、一重に頼む」
と仰せける
相人は承り、
「愚かの仰せの候や、かの太子、
未だ胎内に孕ませ(はらませ)給いながら
御母諸共に、百日が間、法華経を読誦し
毎日、三巻(がん)づつ、観音経、
怠らず読ませ給うなれば、
いかほど呪詛し奉るども更に、験(しるし)は候うまじ
その上、かの御経の文(もん)に
還著於本人(げんじゃく おほんにん)と、説き給えば 
かえって、御ため、悪しく覚え候
同じくは、よそに聞こえの無き先に
ただ、おぼし召し留まらせ給え」と
所存の通りを述べたりける
后達は力なげにて
「汝が言うもさることなれども
「ごすいでん」、ひとつ位に就き給わんを
見んずることもめざましかるべし
さだめて、汝を、大王より召されて
王子か姫宮かを叡聞(えいぶん)あるべし
その時、汝、さじ(些事)心得
太子を悪王子と申し
万(よろず)悪しきように奉聞(そうもん)し
九百九十九人の后が憤りを安めて得させよ
その恩賞には、汝に宝を得さすべし
一重に頼む」
と仰せける
されども相人、受け得ずして
「あら、もったうなや」と立たんとす
后達、袂(たもと)にすがり
中に取り込め
「いかに、相人、「ごすいでん」一人に
九百九十九人の女御を、思い替えんとや
我々、心一つなれば生をも返す、
生きながら、千人の鬼となる。
「ごすいでん」に乱れ入り、
太子諸共つかみ裂き
思う本意を達して後
汝が子孫、末孫(ばっそん)まで取り失い
その時思い知らすべし」と
宣う(のたもう)言葉に下よりも
たちまち、面(おもて)変色し
髪の毛をい立ち(いだち)凄まじく
ただ、引き裂かるる心地して
面も上げず、手を合わせ、まずしばらく
静まり給え、仰せは、いかで背かじと
覚えずていど(底土)にどうと伏し  
心を静め、眼を開き、顔振り上げて、大息つぎ
「ああ、詮方なきこと共や、
許させ給え仏神」と
ついに、了承(りょうじょう)したりけり
后たちは聞こし召し
早、面の色なおり
「うれしゅう候、相人、まず、当座の悦(よろこび)」と
色よき小袖一重づづ給わり
重ねて、祝い申さんとて
山の如くに積ませける
相人これを給わり
お暇申して立ちければ
后達、続いて出で
「万事は頼む、相人」と
そぞろに悦喜(えっき)し給えば
相人、いよいよお受けをし
支度へこそ帰りける
とにもかくにも、かの相人がはかなさ
后達の憤り
恐ろしきともなかなか申すばかりはなかりけり
 
二段目
さる間、千人の后達
各々心を一つにして
「ごすいでん」にぞ入り給う
大王、叡覧ましまして
「只今の参来(さんらい)は如何に」
との宣旨(せんじ)なり
后達
「さん候、「ごすいでん」ご懐妊祝いのため
且(か)つうは、又羨ましさのままにて候、
願わくば、王子にてましませかし、
それに付き、並びの「けいほう国」と申すにこそ
来し方、行く末、八十年を鑑みる
相人有りと申すなり
彼を召して
王子か姫宮かをお尋ねあり
もし、姫宮にてましませば
七月の内に てんじかへる(?)と申すなり」と
奉聞有り
帝(みかど)かかる巧みの有る事とは知ろし召さず
げにもと思し召し
かの相人を召されける
博士、参内仕る
則ち宣旨有りけるは、
「ごすいでんの懐妊、
王子か姫宮かを、考え申せ。」と、
ありければ、相人承り、
やがて、占方を開き、やや、久しく考えて
「一定(いちじょう)王子にて、わたらせ給う。」
と申し上げる。
大臣、公卿、殿上人
喜びの笑みを含む
大王の御叡顔(えいがん)申すもなかなか愚かなり
后達も喜び顔にて
今や遅しとおぼし召し
相人やがて心得て
「されば、太子にては候えども
悪王子にて、御手には、悪という字を握り
誕生ならせ給いて
百年間、世の中悪しく
三歳の御時、鬼神来たって人民の種を断ち
七歳の御時、大王の御首を切り
御母御をも大臣、公卿も刺し殺し
十歳の御時は、唐の王に位を奪われ
その時、王子も滅び給う
占(うら)の 面、斯く(かく)のごとし」と
后達の教えのままに申しければ
大臣、公卿、千人の后達、
一度にわっと手を打って
目を見合わせ、
あさましさよとて
胸中、皆、苦々しくぞ見えにける
大王、つくづく、叡聞あり
「めでとうも占のうたり
天竺の中にも、この、まがた国の主(あるじ)たる身が、
普通にては叶うまじ、
その上、不浄の習いにて
未だ、(いまだ)生ぜざるに
胎内にて死せんこともあり
あるいは生まれて、
その日を過ごさず死するもあり
たまたま、もうくる王子なれば
七歳まで、なれん事喜びなり
果報いみじければこそ
王子とは生きるらめ
誠に、由々しき占方」とて
相人には、、当座の御祝いとて
唐綾、千反(せんたん)くださるる
相人は御暇(いとま)給わり
御前を立って出でけるが
たちどころに、門外にて
血を吐き、眼抜け出、口もさけ、
狂い死に、死んだりしは、
験し(ためし)少なき天罰なり
大王、叡聞有りて
「さればこそ相人が、
目出度き王子を誹りたる(そしる)天罰にて、
堅牢地神(けんろうじしん)に蹴殺されたりけるよ」と  
叡慮もいよいよ麗しく(うるわしく)ありければ
千人の后達、いとど本意(ほい)無さ限りなく
御暇(おいとま)申して帰らるる
なお、憤り深くして
一つ所に集まりて
見目悪ろき女房達
髪、空様に巻きあげさせ
赤き衣装にて身をぬいくくみ
顔も赤く塗り立てて
金輪の足に火を灯させ(ともさせ) 
腰に太鼓を付けさせ
拍子を揃えて、暗き夜の
目指すも知らぬ暗かりし
小雨も降りて、風うそ吹き
物凄まじき夜なりしに
ごすいでんの前後にして
数の太鼓を打ち立て
御殿も崩るるばかりにて
天地を響かせ
その中にしわがれたる声有りて
口々にののしる様
「ごすいでんの孕ませ給うは
悪王子にておわします
誕生ならば御父大王を殺し給わん
それにつき
四方山(よも山)は風に破れて
火炎となり
神も仏も去り給う
国は野干の住み家となりなん
疾く、疾く、還御(かんぎょ)なさるべし
去らずば、禁裏の人々を
三日が内に取り殺し
すみやかに、大王の髻(たぶさ)をつかんで
虚空に上がらん
いまだ、御果報尽きざる故
堅牢地神の仰せを被り
只今、是まで、参りて候
王子の誕生無き先に
ごすいでん諸共に
失わせ給うべし
それさなくば
今生後生の仇となるべし
早、早、還御ならせ給え」と
おめき叫んで、行き方知らずなりにけり
恐ろしなんども愚かなり
 
大王、しばらくありて
「さても縁無き王子かな
過去の業因こそ悲しけれ」と
玉体(ぎょくたい)を苦しめ給うぞあさましき
左右の大臣、申さるるは
「かかる不思議の候上、ことに五月に及び
御帯(おんおび)せさせ給いて後は、
汚れ(けがれ)とて、
ご一緒のお住まいは、叶わざることにて候
早、ごすいでんは、七月にならせ給えば、
疾う、疾う(とうとう)、閑居ならせ給え」と
各々申し奉る
大王つくづく叡聞ありて、
「誠にその謂われあり、
さりながら、とても汚れしこの上は、
今宵ばかりの名残ぞ」と
昔の今の御契り
忝(かたじけ)なくぞ、聞こえける
さすが、御心にまかせねば
早、鳥の音も訪れて
暁の鐘なれば
心細くも絹ぎぬに
引き別れさせ給いける
いたわしや、ごすいでん
空しき床にただ一人
嘆き伏しましませしが
御跡を見送り給い
「ああ、浅ましや
今より見みえ奉らん事難(かた)かるべし
こは、そも、何(なに)ということぞ
ああ、恨めしの浮き世や」と
絹引き担ぎ、伏し給う
とにもかくにも
この人々の御別れ
浅ましきとも、なかなかに、
申すばかりはなかりけり
 
三段目
その後、千人の后達
謀(はかりごと)故、大王を
内裏へ閑居なし奉り
喜び給うは、限りなり
されども、
「王子誕生ありて
かの悪性(あくしょう)の験(しるし)なくば
今までたくみしこと共の
現れなんこそ、転(うたて)けれ
いかがわせん」と申さるる
その時、蓮華夫人(れんげぶにん)は
「愚かの仰せ候や
王子誕生あるならば
ごすいでんは一の后に立ち給わん
そのことを思えばこそ
あらぬたくみも仕る
とかく、武士(もののふ)に申しつけ
ごすいでんを奪い取り
山中にして失わんに
何の子細の有るべき」と
情けなくもたくまるる
千人の后達、この由を聞こし召し
「さらば、その儀しかるべし、急ぎ給え」というままに
ひそかに官人(かんにん)召し出され
「いかに、汝ら、ごすいでんの孕ませ給うは
悪王子なれば
ごすいでんもろともに
失い申せと宣旨なり
さりながら、後々まで他国の誹り(そしり)を思し召し
稚児山の麓、鬼畜の谷に、虎の岩屋に連れ行き
密かに誅し申せとの勅諚にて
このりけん(利剣:鋭利な剣)を給わる」と
さしも御秘蔵御宝の「とうはつ」(※不明)
という御剣(ぎょけん)を盗み出してたびにけり
官人ども、承り、
大事の事とは思えども
宣旨とあれば力なく
御剣を給わり、お受けをなし
御前を罷り立ち、ごすいでんへと急ぎける
さればにや、ごすいでんには
大王、還御なりて後
付き従いし人々も
「あら恐ろしや、今にもまた
れい(例?)の者など来たりやせん
命の有りてこそは」とて
上下三万人、召し使われたる人々
我先にと、落ち行く程に
人一人(いちにん)も残らばこそ
ごすいでんは、たちまちに
野干の住み家となりにける
いたわしやごすいでん
かくとは、夢にも知ろし召されず
人や有ると召さるれど
もとより、落ち行きたることなれば
答え(いらえ)申す者もなし
胸打ち騒ぎ、御簾の内より出で給う
呼ばわり給えども、一人もあらざれば
「こは、そも、何という事ぞ
広々(こうこう)たるこの所に
妾(わらわ)一人捨て置き
何となれる身の果てや
ああ、味気なや、物凄や」と
倒れ、伏してぞ泣き給う。
やや、あって、御涙の暇よりも
「これは、夕べの告げにより
皆々、落ち失せたりと覚えたり
さあれ共、女方達とても
落ち行く程ならば
など、妾をもうち連れ
いづくへも忍ばずして
自ら、一人、捨て置きし
心強(つよ)や、曲もなや
由(よし)それとても力なし
せめての事に、
肌の守りの観世音を取り出(いだ)し
大師大悲の誓いには
枯れたる木にも
花咲き実なると申せば
我が身の事はともかくも
胎内におわします王子の誕生
行く末までも守らせ給え」と
嘆き沈ませ給いける
かかる折節、件(くだん)の官人共
矛剣(ほこつるぎ)引きさげ
ごすいでんに乱れ入り
「抑(そも)、ごすいでんは、
悪王子を孕み給う故により
急ぎ、失い給い参らせよとの綸言(りんげん)なり
急ぎ、御出で候え」と
高らかにののしりける
ごすいでんは聞こし召し
「なんと申すぞ、官人ども
わらわを失い申せとや
情けなの宣旨や」と
消え入るようにぞ見え給う
官人共承り
「御理(おんことわり)はさることなれども、
綸言、替えられぬことなれば
早、疾く、御出でましませ」と
「さなくば、我々、推参し
御座近く参らん」と
声声(こえごえ)に、おめきければ
「やれ、さな言いぞ
心無き武士も、物の哀れは知るぞかし、
さりながら、汝らを恨むべき道も無し、
恨みても飽きたらぬは、大王の御心なり
今朝、東雲の絹々に、又も逢瀬と宣いし(のたまいし)は、
偽りなりける兼ね言
ただ、恨めしきは先の世の
因果の廻る小車の
やる方も無き我が身かな
よし、それとても、先の世の報いと思えば
恨むべきにあらず
されば、現在の果を見て
過去未来を知るとかや
後の世も又、かくこそあらめと
思えばいとどあじきなや」と
嘆き、沈ませ給いける
かくて、時刻も移りければ
官人共、声々に
「遅く候、御急ぎあれ」と
攻むるにぞ、力及ばず
「さあらば、最後の出立ちせん」とて
一間所に入り給い
白き衣装に
花山吹の練り襲  
紅の御袴を踏み含み(くくみ)出でさせ給う
御歳は十九(じゅうく)とかや
御かたち御ありさま
あたりも輝くばかりなり
さて、有るべきにあらざれば
官人共が中に取り込め奉り
密かに、御所を忍び出で
虎の岩屋へ赴き(おもむき)けるは
これやこの、
阿傍羅刹(あぼうらせつ)が手に渡り  
剣の山へ、追い上げらるる心地して
必死の歩、暇もなく
七日七夜と申すには
稚児山の麓、鬼畜谷に
虎の岩屋に着き給う
とにもかくにも、ごすいでんの御有様
いたわしきとも、なかなか申すばかりはなかりけり
 

四段目
さるほどに、いたわしやごすいでん
稚児山になりぬれば
敷皮にぞ座し給う
扨(さて)、肌の守りの観世音を
岩の上に置き参らせ
懐より、御経を取り出し
迦陵頻伽(かりょうびんが)の御声にて
高らかに遊ばされ
「我、八歳の春よりも
毎日、三巻づつの普門品怠らず
その守りには、
我こそかくなり果つるとも
胎内に宿らせ給う王子
人とならせ給うまで
守らせ給え」
と、祈念あり
さて、ご本尊を守りに納め
御首に掛け給い
「いかに、もののふ(武士)共
この間のいたわり、
とこう、言うに及ばず
早、疾く、誅し申せ
とて、合掌してぞおわします。
官人どもも、涙に暮れていたりしが
さてしも有るべきことならねば
涙とともに「とうはつ」の剣を抜き
ごすいでんの御後ろに立ち回り
「今こそ、御最期なり
お念仏申させ給え」と
正念の息の下より
剣(けん)振り上げれば
不思議やなその剣(つるぎ)
段々に折れにけり
はっと驚き、官人共、一度に手を打ち
あきれたるばかりなり
ごすいでんはご覧じて
「尤も(もっとも)、こうこそ有るべけれ
自ら、思い当たって有り
我、胎内には
忝(かたじけ)なくも
十全の君宿らせ給うを
いやしき、武士(もののふ)の身として
剣戟(けんげき)をあつる(?あやつるカ)
冥加の程こそ、浅ましけれ
王子誕生ならざるうちは
切れども、突くども、甲斐有るまじ
汝ら、我らに至まで
過去の業因(ごういん)つたなくして
善悪の隔ては、あれ共
上下の差別(しゃべつ)無く
皆これ、仏体(ぶったい)なるものを
されば、人間の出生(しゅっしょう)する初めを
あらあら語りで聞かせん。
先ず、母の胎内に宿る初めの月は
不動のにて
独鈷(どっこ)の姿を表(ひょう)せり
されば、不動という文字
一つの幼い(おさあい)、
力を重ねると書けり
苦患(くげん)目前
三悪道に迷い出る初めなり
二月目は、如意宝珠 
釈迦如来にてまします
その形、錫杖の如し
三月目は文殊菩薩
その形、三鈷に表せり
四月目は普賢菩薩
頭と左右の手足出きたり
大日の形を少し顕(あらわ)すなり
五月目は地蔵菩薩
六根ことごとく備わる
これ、六道(りくどう)の初めなり
六月目は弥勒菩薩
五輪五体の如くなり
七月目は薬師如来
されば、母の胎内を
浄瑠璃世界とも、又は浄土ともこれを言う
八月目は観音菩薩
十五円満の月の如し
平等に光を施す
これを又、成仏とも、発心の大日とも言う
九月目は勢至菩薩
勢至(せいし)の二字は、
生まるることは、丸が力に至ると書く
ここを、伊勢天上太神とも言えり
されば、伊勢という文字は
人はこれ、丸が力に生まるると書けり
十月目は阿弥陀如来
つかへり(?とかえり:十返りカ))とて
この目の前の地獄へ、真っ逆さまに落つるなり
これ、六道へ迷い出る初めなり
仏の御慈悲、かくの如し
されば、我が胎内に宿らせ給う王子も
七月八月に至り給えば
薬師、観音二仏の体にておわします
殊にまた、マガタ国の主
大王の御子なれば
かほどの奇特有るまじや
王子誕生あらん迄は
心静かに待ち居て
その後、計らえ(はからえ)」
と宣え(のたまえ)ば
官人ども、
「あら有り難の御事や
さらば、御共申し上げ
一先ず奉聞(そうもん)仕らん
ご帰京あれ」
とぞ申しける
ごすいでん聞こし召し
「ああ、うたてやな、
何の面目に、二度(にたび)都へ帰るべき
長らえ果つべき身にてもなし
その上、この事、奉聞し、
叡聞(えいぶん)にかないなば
残る后達の
科(とが)に落とされ給わんを
見んずることこそ、よしなけれ
我一人生きて
千人に及ぶ后達を失なわんもいかがなり
我は思い極めしなり
只、汝等が、
待ち遠うならんこそ、うたてけれ」と
宣う声の下よりも
王子、易々と(やすやす)誕生有るこそ不思議なり
官人ども驚き
衣に包み、取り上げ見奉れば
玉のようなる王子にてぞおわします
急ぎ、谷に下り、水を結び
御産湯にぞ奉る
さて、いだき上げ見給えば
十五夜の月の如し
御父、善財王に、少しもたがわせ給わねば
「はかなや、この太子を捨て置き
只今、死なんこと、思えば思えば恨めしや
あまた持ちたる身にてさえ
子は愛(いと)おしきものぞかし
いわんや、これは、自らが
仏神にかけて祈り
たまたまもうけし、この王子に
せめて、忌みの内ばかりも
傍(そば)で死せんず
本意(ほい)なさよ
かく有るべきと知るならば
生まれ給わぬその先に
失なわれ参らせなば
かほどに物は思うまじ
妾、はかなくなりて後
誰を(たれ)を頼りに育ち給わん
あまたまします后達の御腹に宿らせ給えば
黄金(こがね)の台(うてな)に錦の上にてこそ
かし付かれ給うべきに
つたなき腹に宿らせ給い
そことも知らぬ山の奥にて
誕生なりし悲しさよ
さりながら、御命目出度くは
父、大王の見参(げんざん)に入り給い
自らが無き後、弔(とぶら)いてたび給え
ああ、浅ましきや」とて
肌の守りを、太子の首に掛け参らせ
「願わくば、観世音
王子の行く末、安穏(あんおん)に守らせ給え
時刻も移れば最期を急がん
今は早、これまでなり
名残惜しの御太子
これが、限りなれば
母が顔をよく見置かせ給え
あら、名残惜し情けなや」と
顔と顔を押し当てて
今、ひとしおの涙なり
御涙の下よりも
「かくばかり、孤児(みなしご)を
伏せ置く山の麓には
嵐木枯らし、心して吹け」と遊ばして
「南無極楽世界の経主、弥陀仏、すぐに
引摂(いんじょう)し給え
南無阿弥陀仏」と
高らかに十ぺんばかり唱え
左の御手にては
乳房を王子にふくめ
右の御手にて岩角(いわかど)を押さえ
念仏して待ち給えば
官人、涙諸共に
御後ろに立ち回り
太刀を振るかと見れば
御首は、あえなく前にぞ落ちにける
まことに花の御形を
夕べの露となしにける
それよりも御首を
器物(うつわもの)に押し入れば
空しき骸(むくろ)に声有りて
一首は、こうぞ聞こえける
 
「みなしごの 住める深山の たつた姫
あらくも(荒雲)秋の 木の葉散らすな」
 
と聞こえければ
官人どもはっと手を打ち
「あら、恐ろしや、
かかる不思議のある上は
又、如何なることが出来なん、
あら恐ろしや、恐ろしや」と
後をも見ずして逃げにける
とにもかくにも
ごすいでんの御最期
物の哀れはこれなりと
皆、感ぜぬ者こそなかりけり
 
 
 
五段目
 
その後、官人ども
ようように稚児山を逃げ延び
王宮にぞ帰りける
さて、内裏に参りつつ
かのあらましを申し上げ
御首を奉れば
千人の后達
我も我もと立ち寄り
御首を実検あり
心良げに打ちうなづき
「今こそ、胸は散したれ」と
悦び給うは限りなし
さて、官人どもには
数の宝を下され
則ち、
「この首を、ごすいでんの住み給いし
御殿の下に掘り埋(い)けよ」
「かしこまって候」とて
密かに埋(う)づみ奉る
是はさておき
稚児山におわします
ごすいでんの御死骸
同じく太子のご様子にて
諸事の哀れを留めたり
さても、かの太子は
方便(たつき)も知らぬ山中に
捨てられておわしますが
されども、世の中の恩愛の契り浅からず
ごすいでんの御死骸
少しもその色、損せず
あまつさえ、御乳房より乳(にゅうみ)出で
太子は空しき骸(むくろ)に抱き(いだき)付き
乳房を含み給いつつ
月日を送らせ給いけり
これはさておき、この山に棲む虎狼ども
御前に畏まり(かしこまり)
頭(こうべ)をうなだれ、手をつかね
太子を守護し奉る
誠に諸天も濃情(のうじょう)や増し増しけん
服(ぶく)することはさておき
梢に上がり木の実を取り
谷に下り水を結び
王子をいたわり奉る
かくて月日を送らせ給う程に
天の岩戸の明け暮れと
早、七歳にぞなり給う
そのころ、舎衛(しゃえ)国、王捨城(おうしゃじょう
祇園精舎の和尚をば
智賢上人(ちけんしょうにん)とぞ申しける
ある夜、不思議の夢を見て
御弟子達を召され
「今宵不思議の夢を見る
これよりも南
稚児山とおぼしき山へ
居所(きょしょ)を尋ねて行けるに
いとけなき子の
野干の中に打ち混じり
心良げに遊びしが
中に老王(ろうおう)一人(いちにん)まみえたり
立つより、子細を問えば
老王答えて曰く
『これこそ、中天竺、マガダ国の主(あるじ)、
善財王の太子なり、
ごすいでんと申す后の孕ませ給うを、
千人の后達、深くねたみ、
この山にて失い給う
臨終以前に、この太子を産み置き給うが
虎狼野干に、育(はごく)まれ
既に、七年(とせ)を送り給う
哀(あわれ)、お僧の弟子ともなし
ごすいでんの御菩提を問わしめ給えかし
我はこの山の主なり』
と、言い捨て
飛び去り給うと思えば
そのまま、夢は醒めてけり
いざ、稚児山に急がん」
とて 、御弟子達を御共にて
稚児山へと急がるる
山にもなれば
かなたこなたへ、お尋ね給えば
太子は虎狼野干を共としておわしますが
人を見慣れさせ給わねば
怖(お)じ戦(おのの)かせ給いける
上人もご覧じて
「のう、苦しゅうも候わず
これは、仏の告げにより
御迎えに参りて候
野干のものも恐るべからず
こなたへ」と
招かせ給えば
野干と共に、上人の御前近く寄り給う
不思議やな王子は
山中に育ち給えば
人の言葉は初めてなるに
上人の御詞(おんことば)を聞き留めさせ給いしは
猶(なお)ただ人と思われず
上人、王子を抱き給い
緑の簪(かんざし)かきなで
「これは、さて、王子にてましますか
浅ましの御有様や
例えば鳥の翼落ち
魚の水を離れ
繋がざる舟の浪に漂う如くにて
月日を送り年を迎え
七歳まで成長ならせ給うこと
不思議ながらも、
いたわしさよとて
衣の袖をしぼらるる
涙の暇よりも
「いかに、汝ら、畜類と言いながら
太子を育て参らせし
志(こころざし)こそ優しけれ
今よりは、
この聖が預かりて育つるなり
心安く思うべし、さらば、帰るぞ」
とて、王子をば、同宿共に抱かせ
立ち出で給えば
野干ども、あるいは尾を振り、角を伏せ
御後を慕いければ
上人はご覧じて
「やれ、帰れ、汝らが志は切なれども
太子、御世に立ち給うぞと、
悦びをなし、早、帰れ」と、制し給えば
野干ども皆一同にひれ伏し
黄なる涙を流しける
ついに、山地の間を送り参らせ
さてもお暇(おいとま)申し
心細げに後を見返り
己(おの)が棲みか、棲みかに帰りけり
上人も太子を誘い(いざない)
霊山(りょうぜん)へぞ帰り給う  
とにもかくにも、この太子の御有様
野干どもの志、優しきともなかなか
申すばかりはなかりけり
 
六段目
去る間、上人は、霊山に帰らせ給い
太子をいたわり、良きに養育し給いけり
誠に、稚児の御成人(せいじん)
宵に生えたる笋(たかんな)の
夜中の露には育(はごく)まれ
尺を伸(のぶ)るが如くなり
かくて、学問させ給うに
一を聞いて十を悟り
経論の奥義を極め
一年、三千の観法
その源を尽くせり
されば、十三の御年は
八万諸小経、皆読み尽くさせ給えば
生知安行(せいちあんこう)の碩学(せきがく)とて
各々(おのおの)感ずるばかりなり
ある夜、夢に、御母、
ごすいでんに対面あり
昔、今のことどもを
詳しく語り給いしより
御面影の身に添い
食事をきこし召されず
風邪の心地と宣いて
深く悩ませ給いける
上人驚き
「御違例(いれい)は如何候ぞ」
「さん候、母上を夢に見しより
御懐かしさ忘れられず候
さてそれがしが母は
いづく、いかなる人ぞかし
教えてたべと
御涙に咽(むせ)ばるる
上人、涙と諸共に
太子、未だ、山中に捨てられてましますころ
夢中に告げのありしことども
細々と語り給えば
御稚児
「さては、疑う所なし
上人様の御物語と、
我が夢、露も違わず
その上、母の御首を器物(うつわもの)に入れ
常に住まわせ給いし、
御殿の下に埋(うづ)みたる由、
詳しく教え給いてあり
哀(あわれ)、この事奉聞(そうもん)し
父、大王に見参し、この恨みをも申し
また、ごすいでんの御ぐしをも
一目拝み申したや
あら、懐かしの御母や」と
恋させ給うぞ理(ことわり)なり
上人は聞こしめし
「げにげに、理なり、
さりながら、時刻もあるべし
折りを得て奉聞し、
父大王の見参に入り
又、ごすいでんの御ぐしをも、
拝ませ申さん
御心(みこころ)安かれ」
と、様々なぐさめ、深くいたわり給いける
かかる所に、内裏より勅使立ち
上人やがて対面あり
勅使申されけるようは
「さても、当年は、
ごすいでんの十三年にあたらせ給えは、
御弔い(とぶらい)のためにとて
寺を建て、堂塔を建立し
殊には又、ごすいでんにして
結縁(けちえん)のため
御説法あるべし
との御事なり
しかれば、供養の導師は智賢上人なるべ
しとの勅諚(ちょくじょう)なり急ぎ参内あるべし」と
宣旨の趣述べられたり
上人やがて、勅答(ちょくとう)あれば
勅使は内裏に帰えらるる
かくて、上人御稚児に近づき
「かかる宣旨を蒙り候
願う所の幸い、早、御用意あれ、
御稚児、悦喜(えっき)限りなく
上人と打ち連れ
早、ごすいでんへぞ急がるる
程なく、ごすいでんに入り給う
大王も御幸なれば
月卿雲客(げっけいうんかく)
頭(かぶり)を傾(かたぶ)け
各々、弔問し給いける
導師、高座に上がり
開闢(かいびゃく)の鉦、打ちならし
既に説法し給いける
「それ、つらつらをおもん見るに
仏一代の説法は
華厳、阿言、方等、般若、法華、涅槃、
まず、華厳経は、
三七日(さんしちにち)の説法なり、
十万浄土の相を顕し、
三界(さんがい)唯一神(ゆいつしん)と説き給えり
さて、阿言は、十二年の説法なり
これは、 小乗の法なる故に
仏も驚かす型を現し
三蔵の実りを説き給う
さて、終わり八年は
法華経を説法し給えり
取り分き、女人成仏は
五の巻、提婆品(だいばぼん)に至極せり
『一者、不得作(ふとくさ)梵天王(ぼんてんのう
二者、帝釈
三者(じゃ)、魔王
四者、転輪聖王(てんりんじょう王)
五者、仏身
云何(うんが)女身、
速得成仏(そくとくじょうぶつ)』とあり
この文(もん)の心は
一つには梵天の位に至こと叶わず
二つには、帝釈
三(みつ)には魔王になる事なし
四つには転輪聖王
五つには仏身を得ることあたわずとなり
されば、法華経は
ないし、一句一偈(げ)なりとも読誦せば
即身成仏疑いなし
さてまた、阿弥陀の三十五番の巻に曰く
我が仏を縁に
十方(じっぽう)仏土の中に女ありて
我が名号聴聞し 
十声(こえ)一声(こえ)、嫌い無く
阿弥陀仏と申すならば
必ず女子を男子(なんし)に転じ
阿弥陀仏は手を引き
菩薩は即身を助け
九山(くせん)蓮華の上に座せしめ
仏の大恵( え)に入りしめんとなり
されば、阿弥陀の三字を
阿難、釈して曰く
「あ」とは則ち、空なり
「み」とは是、げ(假:仮)なり
「だ」とは則ち、ちゅう(中)なり 
ほつほうおう(?)の三神
仏法僧の三宝
三徳、三般若  
諸々の法門は、皆ことごとく
阿弥陀の三字に接するなり
今日の説法は是までなり
願以 比功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道
(がんいしくどうふきゅうおいっさい
がとうよしゅじょうかいぐなりぶつどう)
と 、高らかに回向あれば
君を初め奉り
臣下大臣一度に
随喜の涙を流し給う
かくて、説法終わりしに
御稚児は、ただひれ伏して
消え入るばかりに見え給う
その時内より
小久見(おぐみ)の中将
勅を蒙り罷り出で
「近頃殊勝に候
布施は何にても
望みに従い給わん」となり
「また、これなる幼きは
深く嘆き入らしを
君、優しく思し召し
何者の子なるぞと
ご不審なさるる間
勅答(ちょくとう)あれ」とぞ申さるる
上人、宣旨を聞こし召し
「あら、ありがたや
それがしは、出家の身なれば
何の望みも候わず
又、これなる稚児のこと
夢中に仏の御告げ候えば
親兄弟とてもなく候
但し、この稚児の望める事の候えば
哀(あわれ)叡聞に入るならば
有り難くこそ候わめ」と
勅答ありければ
やがて中将立ち帰り
この由、つぶさに述べられたり
大王、叡聞ありて
何にても望むべし
叶え給わんとの宣旨なり
のうみの大臣、勅使にて
望みの由を尋ね給う
その時、太子仰せけるは
別(べち)の儀にても候わず
「我、承り及びたる、
ごすいでんの御髪(おぐし)を、
一目拝み申したく候」
大臣取りあえず、
「これは、叶わぬ望みかな
ごすいでんと申すは
十三年以前に
行方無く失せさせ給えば叶まじ
ただ、外の事を望まれよ」
「いやさな、宣いそ、
ごすいでんの一生涯
殊に御髪の有り所を
それがし、よくよく存じて有り
一目見せて給われや」
大臣、猶も心得ず
その時、上人進み出で
「ご不審は尤もなり
今は、何をか包み申さん
この稚児こそ
大王の御太子にておわします
さても、ごすいでん、
この太子を孕み給いしを
千人の后達
深く妬み給いしが
あまつさえ、官人どもに仰せ付け
稚児山の麓にて、殺害(せつがい)し給う
しかるに御最期に望んで
不思議に太子を産み置き給えり
されども、仏神の御加護にて
虎狼野干は立ち寄れども
服(ぶく)する事も候わず
かえって守護し奉り
七とせ迄育て申すを
仏の霊夢に任せ
かの山に分け入り
太子を求め参らせ
かく養育し奉るなり
さて、ごすいでんの御髪(おぐし)を
この殿の下に埋(うづ)みたる由
夢中に太子に告げ給うなり
浅ましさよ」と語り給えば
月卿雲客、一度にはっと手を打ち、
さを悟り
各々、頭(こうべ)を地に付ければ
大王も御簾の内より
覚えず出で御ましまして
太子に抱(いだ)き付き給い
これは、これはとばかりなり
御涙の暇よりも
「十三年以前、ごすいでんの胎内に、
捨て置きたる太子かや、
不思議の縁に会いけるよ」と
今、ひとしおの御嘆き
浅からざる内よりも
「ごすいでんの御髪尋ねよ」
との宣旨なり
官人ども、則ち御殿の下を掘り返し尋ねけるに
何かは知らず器(うつわ)物あり
やがて、御前に差し上げる
太子、蓋を取り
御髪を見給うに
未だ、色も損じ給わず
恨めしげなる御顔(かおばせ)なり
やがて、御膝に載せ給い
「これが、母上にてましますかや
恨めしの大王様
后達の讒(ざん)を聞き入れ
科(とが)も無き母上を
かかる罪に沈め給うは
恨みても猶、飽きたらず」と
空しき御髪に抱き付き
声を上げてぞ叫び給う
大王も
ごすいでんの御髪に向かわせ給い
「さぞや、最期のその時は、
麻呂(まろ)を恨み給うらん
夢にも丸(まろ)は知らぬなり
されども太子を求むる事
嘆きに中の悦びなり、
それそれ、后を
残らず召せ」
との勅諚にて
千人の后達を、ごすいでんへ召し連れつつ
さて、大王の宣旨には
「さても、ごすいでん
行方も無く、失せ給いしを
懐かしく思いしに
今、求めて出だしてあり
是、見たまえ」とて
御髪を后達に見せ給えば
后達、一目見給い
互いに目を引き
ただ、あきれてぞおわします
その時、太子、宣うよう
「そも、それがしを、何者とか思うらん
ごすいでんの胎内に
宿りし太子は我なり
各々、妬み給い
武士(もののふ)に申し付け
稚児山の麓にて害せられしかども
それがし、不思議に生まれ
虎狼野干に育(はごく)まれ
この上人の手に渡り
今、かく、人となりてあり
心強くも、ごすいでんを失い給う事
思えば思えば曲もなや
我が母、返させ給え」と
託ち(かこち)給うぞ哀れなり
后達、今は早、陳(ちん)じ給うに及ばねば
顔、打ち赤めさしうつむき
後悔、顔にぞ見えにける
大王、つくづく、叡覧あり
「見ればなかなか恨めしや
一々子細に行い
ごすいでんの教養に報(ほう)ぜん」との
御憤り(いきどおり)は理(ことわり)なり
太子、仰せける様は
「千人を殺したりども
ごすいでん、蘇えらせ給うにも候わず
今日の御とぶらいに
九百九十九人の命を
助けてたべ」
と仰せける
ともかくもこの上は
太子の計らいたるべしとて
御座(みざ)を立たせ給えば
后達、手を合わせ
太子を拝し給いつつ
すごすごと立ち
めんぼく(面目)なげにぞ見えにける
かくて大王
御位(くらい)を太子に譲り
法王とならせ給う
されども、かく浅ましき国にありて
又、憂き事もやあらんと思し召し
いづ方にても、めでたき国に
御身を沈め
衆生を済度あるべしとて
飛車と名付けて、千里駆くる車に
大王、太子、ごすいでんの御髪
智賢上人、御身近き大臣
各々召されつつ
東を指して飛び給う
この事、猶も隠れなく
后達、後を慕い、追い給う
梵天、帝釈、天下り
岩、大石を投げ給えば
皆、微塵となり給う
されども、紫雲この所に留まり
蟻という虫になり給うとかや
かくて大王の御車
日本、紀伊の国音無川の辺に着き
ゆや(熊野)権現と現れ
ごすいでんは結ぶの宮
太子は、若一王子
智賢上人は証誠の大菩薩
一万の大臣、十万の殿上人は、末社と現れ
衆生済度し給いけり
熊野権現、これなりと
貴賤上下おしなべて
感ぜぬ者こそなかりけれ
 
右者大夫直之正本を以写之畢
大伝馬三町目
うろこ形や孫兵衛新版 

注釈

南閻浮提(なんえんぶだい)
《(梵)Jambu-dvpaの音写》仏教の世界観で、人間世界のこと。この世。現世。世界の中心である須弥山(しゅみせん)の四方にある大陸のうち、南方にあり、閻浮樹が生えているとされ、もとはインドをさした。閻浮洲(えんぶしゅう)。南閻浮提。南贍部洲(なんせんぶしゅう)。
補陀落(ふだらく)
《(梵)Potalakaの音写。光明山・海島山・小花樹山と訳す》仏語。インド南端の海岸にあり、観音が住むという八角形の山。日本でも観音の霊地にはこの名が多い。補陀落山(ふだらくせん)。
※ここでは、南閻浮提は都、補陀落は熊野を指す

 

 

がんもん(雁門)仏を雁王と言うことから、仏門。

じょうじゃくこうど【常寂光土】の略)
天台宗で説く四土の一。法身の住んでいる浄土。真理そのものを世界としてとらえた、一切の浄土の根源的な絶対界。寂光土。寂光浄土。

きけん‐じょう〔‐ジヤウ〕【喜見城】
須弥山(しゅみせん)の頂上の利天(とうりてん)にある帝釈天(たいしゃくてん)の居城。七宝で飾られ、庭園では諸天人が遊び戯れるというので、楽園などのたとえにされる

ふもん‐ぼん【普門品】
法華経第25品「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)普門品」の略称。観音経。

ひたすら(一向:すっかり、まったく)

けん‐しん【見神】
霊感によって神の本体を感知すること。神霊の働きを感知すること。

 

東宮(皇太子の住む宮殿。みこのみや)

うたて(転)     1 自分の心情とは関係なく、事態がどんどん進んでいくさま。ますます。
2 事の成り行きが、心に適わないとして嘆くさま。つらく。情けなく。
3 事態が普通でないさま。いやに。異様に。
[形動ナリ]はなはだよくない。情けない。

法華経普門品第二十五  還著於本人  (その罪は、かえって、本人に及ぶ)

けんろう‐じしん〔ケンラウヂシン〕【堅×牢地神】大地をつかさどる神。万物を支えて堅牢であるところからいう。地天(じてん)。

金輪: 足のある、鉄製の輪。五徳(ごとく)。

かんぎょ【還御】
( 名 ) スル
天皇・上皇が行幸先から帰ること。還幸。

かねごと:約束

花山吹:襲(かさね)の色目の名。表は薄朽葉(うすくちば)、裏は黄色。山吹襲。

練り:生絹 (きぎぬ) の不純物を除いてしなやかにすること。また、その糸や織物
襲:衣服を重ねて着ること。また、その衣服。重ね着。(襲)平安時代、袍(ほう)の下に重ねて着た衣服。下襲(したがさね)。

ふみ‐くく・む【踏み含む】
《「ふみくぐむ」とも》衣や袴 (はかま) などを足で踏むほどに裾長 (すそなが) に着る。

阿傍羅刹(あぼう らせつ)は 、地獄の獄卒である阿傍と羅刹とを併称したものである。
『賢愚経』、『五苦章句経』ほかによれば、地獄には、頭部はウシ、ヒツジ、シカその他であり、ヒトの手を有し、足にはひづめがある獄卒がいる。 現世で悪事をなした人が地獄に堕ちたとき、彼らによって閻魔のもとにともなわれ、百千万歳のあいだ呵責をあたえられる。 羅刹は、『観仏三昧海経』によれば、大鉄叉を捉(と)り、地獄に堕ちた人の頭を破り、脳を出す。 『十王経』によればこの二者を略して傍羅とする。
かりょうびんが【×迦陵頻×伽】
《(梵)kalavikaの音写。妙声・美音・妙音鳥などと訳す》雪山(せっせん)あるいは極楽浄土にいるという想像上の鳥。聞いて飽きることない美声によって法を説くとされ、浄土曼荼羅(まんだら)には人頭・鳥身の姿で表される

十全(じゅうぜん):少しも欠けたところがないこと。

 

剣戟(けんげき):つるぎとほこ。刀などの武器のこと)

【化】〘仏〙け

仏教に教え導くこと。教化。
仏や菩薩(ぼさつ)が教化のために,仮にさまざまの姿をとって現れること。
にょい‐ほうじゅ【如意宝珠】
意のごとく願望を成就させてくれるという宝珠
さん‐こ【三×鈷】
金剛杵(こんごうしょ)の一。金属製で杵(きね)の形をし、両端が三つに分かれているもの。三鈷杵(さんこしょ)。こんごう‐しょ〔コンガウ‐〕【金剛×杵】古代インドの武器。のちに密教で、外道悪魔を破砕し煩悩(ぼんのう)を打ち破る象徴として用いる法具。真鍮(しんちゅう)・鋼(はがね)などで作り、中央の握りが細い。両端のとがった独鈷(とっこ)杵、両端の分かれている三鈷杵・五鈷杵などがある
ごりん‐ごたい【五輪五体】
仏語。五大によって構成される五体。肉体。からだ
いん‐じょう〔‐ゼフ〕【引▽接/引▽摂】
1 仏・菩薩(ぼさつ)が衆生をその手に救い取り、悟りに導くこと。2 人の臨終のとき、阿弥陀仏が来迎(らいごう)して極楽浄土に導くこと。
た‐ずき〔たづき〕【方=便/活=計】
《「手(た)付(つ)き」の意。「たつき」とも》
1 生活の手段。生計。
しゃえ〔シヤヱ〕【舎衛】
釈迦(しゃか)在世のころ、中インドにあった国。舎衛城の南に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)があった。


王舎城(おうしゃじょう、梵: राजगृह, Rājagṛha, ラージャグリハ、巴: Rājagaha, ラージャガハ〉は、古代インドのマガダ国の首都。

同宿(どうしゅく):
同じ寺に住み,同じ師匠について学ぶこと。また,その僧。

りょうじゅ‐せん〔リヤウジユ‐〕【霊鷲山】
《(梵)Gdhraka-parvataの訳》古代インドのマガダ国の首都、王舎城の北東にあり、釈迦(しゃか)が法華経などを説いた山。山頂の形が鷲(わし)に似るので、また山中に鷲がいたのでこの名があるという。現在のインドのビハール州中部のラジキールにある。鷲の山。耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。鷲峰山(じゅぶせん)。霊山(りょうぜん )
たかんな【×筍/×笋】
《古くは「たかむな」とも表記》タケノコの古名。たこうな
かん‐ぽう〔クワンポフ〕【観法】
《「かんぼう」とも》
1 仏語。心に仏法の真理を観察し熟考する実践修行法。天台宗の十乗観法など。→観(かん)
しょう‐きょう〔セウキヤウ〕【小経】
阿弥陀経のこと。無量寿経を大経というのに対する称。

 

せいち‐あんこう〔‐アンカウ〕【生知安行】
《「礼記」中庸から》生まれながらに物事の道理に通じ、安んじてこれを実行すること。
けち‐えん【▽結縁】
仏・菩薩(ぼさつ)が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと。けつえん。世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること
げっけい‐うんかく【月×卿雲客】
公卿(くぎょう)と殿上人(てんじょうびと)。
さん‐がい【三界】[名]仏語。
1 一切衆生(しゅじょう)が、生まれ、また死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界。
2 「三千大千世界」の略。3 過去・現在・未来の3世
法華経提婆達多品第十二 の一部
又女人身猶有五障。一者不得作梵天王。二者帝釋。三者魔王。四者轉輪聖王。五者佛身。
又女人の身には猶お五障あり、一には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身速かに成仏することを得ん

ぼん‐てん【梵天】

《(梵)Brahmanの訳。「ぼんでん」とも》
古代インドで世界の創造主、宇宙の根源とされたブラフマンを神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法護持の神となった。色界の初禅天の王。十二天・八方天の一。ふつう本尊の左に侍立する形で表され、右の帝釈天(たいしゃくてん)と相対する。梵天王(ぼんてんのう)。大梵天王
 
転輪聖王(てんりんじょうおう、転輪王とも)は古代インドの思想における理想的な王を指す概念。地上をダルマ(法)によって統治し、王に求められる全ての条件を備えるという。
みょう‐ごう〔ミヤウガウ〕【名号】
仏・菩薩(ぼさつ)の名。これを聞いたり唱えたりすることに功徳(くどく)があるとされる。特に、「阿弥陀仏」の4字、「南無阿弥陀仏」の6字をさす。
くせん‐はっかい【九山八海】
仏教の世界観でいう、須弥山(しゅみせん)を順に取り囲む九つの山と八つの海。一小世界のこと

「願以比功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道」
 禅宗の回向文で「お経の功徳を広く衆生に及ぼして皆で成仏しようではないか」という意味

熊野 (ゆや) 権現。三所権現

結ぶの宮(熊野速玉大社

若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。
熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である

熊野本宮第一殿の証誠大菩薩は、済度苦海の教主である、三身(法身報身応身) の仏なり。