梵天国

ぼん天こく
江戸通油町山形屋新板
元禄十年三月吉日(1697年)
元板推定
鱗形屋 貞享二年三月吉日(1685年)
天満八太夫推定

説経正本集第3(37)


初段

去るほどに
およそ、父母(ぶも)の孝行は、
当来、二世の冥感(みょうかん)たり
三界(さんがい)導師の釈尊も
因位(いんい)の昔は、凡夫にて
仏果を求めん、頼りも無し
然るに、太子、十九にて
父母孝養の御為に
御出家ならせ給いて
終(つい)には、
一乗妙典(いちじょうみょでん)の悟りを開かせ給いて
三界導師の釈迦とは、ならせ給いける
これ又、孝行のとくい(特為)なり
さて、本朝の例(ためし)には
国を申せば、丹後の国、成相の観音
切戸(きれど)の文殊の由来を
詳しく、尋ぬるに、これも一度(ひとたび)は、
凡夫(ぼんぶ)にておわします
(※ 成相寺(なりあいじ):京都府宮津市)
凡夫にての御名をば、
五條の中将高則(たかのり)と申し奉る
父は、大臣高藤(たかふじ)と号す
然るに、父大臣
清水の観世音に祈誓を懸け
授かり給う御子なれば
慈悲哀愍(じひあいみん)の御影向(ようごう)
三十二相を供え
詩歌管弦(しいかかんげん)に至るまで
学び残せる道も無く
上中下(うえなかしも)に至るまで
この君をと
いつき(斎き)かしづき(傅き)奉る
しかるに、世の中
有為転(変)の世の習い
父にも母にも、遅れさせ給いて
愁哀(しゅうあい:執愛)恋慕の御泪
尽きぬ思いに数添いて
父母孝行に、ましませば
父母孝養の御為に
七堂(しちどう)伽藍を建立あり
七間(しちけん)四面(しめん)の金堂(こがねどう)には
諸仏薩?と、建立あり
三間四面の輪塔(りんとう)には
転法輪(てんぼうりん)の僧を供養し
四十九院の楼閣
十二の欄干、珠玉(しゅぎょく)を尽くし
五十の塔は、雲に聳え
さながら、極楽浄土を学び
千部万部を供養あり
尚もこれにて
父母のご恩を報ぜんとて
自ら、水を結び
香を焚き、花を摘み
日夜に御経怠らず
又、ある時は、中将殿
十丈に、壇を構え
十七日が、その間
手向けし笛の、楽の音は
心も言葉も、及ばれず
 あら、有り難やな
江河の鱗(うろくず)天に上がり
れいじん(伶人)、笛を吹きしかば
天人、袖を翻す
十悪五逆の罪消えて
たちまち、九品蓮台(くほんれんだい)の玉の台(うてな)の楽の音は、
心も言葉も及ばれぬ
あら、有り難や
この笛の、梵天国にや通じけん
音楽響き、異香(いきょう)薫じ
花降り下り
雲の内より、名聞(みょうもん)気高き老人は
雲に乗り、天下らせ給いて
中将に対面あり

「我々は、梵天国の大王なるが
我に手向けし、笛の楽
一段、殊勝に思うなり
我、一人(いちにん)の息女を持つ
婿に取らんと、誓いしに
三千世界が、その内に
汝に増したる、親に孝行の者は無し
一人の息女をば、この十八日に
汝が夫妻に得さする」とて
固く誓いを給わって
梵天の大王は、雲に乗り
天、帰らせ給いける
中将、夢と弁えず
いよいよ、御経怠らず
山海の珍物を調えて
刻限をぞ持ち給う

いで、その頃は、天わ(※天長)二年三月十八日の曙に
異香薫じ、花降り下りて
雲の内より、玉の御輿(おこし)
五條の中将の館に入り給う
輝く玉の御(おん)粧い
二八の春の花盛りに
音のみ聞きし、毘沙門の妹に
吉祥天女(きちじょうてんにょ)と申すとも
これには、如何で、勝るべし

又、中将殿と申せしも
観音薩埵の御方便より
成せる姿は、さながらに
嬋娟(せんけん)たりし眉墨(まゆずみ)は、
松(※秋)の蝉の羽(は)に類え(たぐえ)
宛転たりし相好(そうごう)は
円山(えんざん)の月に相(あい)をなし
何れを、春の花とせん
何れを、秋の月とせん
さらでだに、呉竹の
かされる衣(きぬ)の羽衣に
自らなせる、顔(かんばせ)は
春の風のさらさらさ(※と)
降りかかりたる花の雪
疾(と)しは散りなん萩の花
疾(と)しは消えなん(?)玉笹の
あられ(霰)踏む足、ほたほたしし
心ならずも、幻(うつつ)かと
思い乱るる、玉葛
掛けてぞ祈る誓いの末
天にあらば、比翼の鳥
地にあらば、連理の枝
偕老同穴(かいろうどうけつ)の語らい
互いに、見えつ、見えられつ
執愛(しゅうあい)恋慕と聞こえける
とにもかくにも、かの人々の
その有様、目出度さよとも
なかなか、申すばかりはなかりけり


二段目


去る間
帝には、公家大臣を召され
誠に、五條の中将は、
梵天王の婿に成りたる由を
宣旨あり
「我、十全の位(くらい)を受け
四海(しかい)を掌(たなごころ)に知ると言えども
未だ、天の与うる后(きさき)無し
急ぎ、中将に行き
天女を連れて参れ」との宣旨なり

畏まって候とて、頓て、五條に勅使が立つ
中将は聞こし召し
「例わば、御門(みかど)よりの宣旨ならば
命なりとも参らせんが
去りながら、夫妻(ふさい)の仲を引き分け
后になさんとは、これは御門の御誤り
又は、中将が身の恥辱
方々、もって、然るべからず
このことに置いては、御(おん)許させ候え」と返上あり
御門、叡覧(※叡聞)ましまして
「その義ならば、(欠落)
(※武士に命じて召し上げよ)」と
時の侍には
まつあう(松王)兵庫の守正重(まさしげ)を召され
「如何に正重、
汝は、(急ぎ)五條に行き
天女を連れて参れ」
との宣旨なり
正重、宣旨、蒙り(こうぶり)
御前を罷り立ち
急ぎ、我が家に立ち帰り
侍、中間(ちゅうげん)、馬、物の具と
用意する
五条の館に押し寄せ
二重、三重におっ取り回して
鬨の声をぞ上げにける

城の内には
思いも寄らざる事なれば
上へ下へと、返しける
去れども、家に伝わる郎等に
桑原左近の尉、少しも騒がず
表の櫓に走り上ぼり
大音声にて、呼ばわる様
「只今、ここに押し寄せ
鬨の声を上ぐるは
如何なる者ぞ
その名を名乗れ」
と呼ばわったり
その時、寄せ手の陣よりも
大将の正重は、一陣に駒駆け出だし
掘りの巾太に駒を据え
鐙(あぶみ)踏ん張り
鞍笠に突っ立ち上がって
大音声にて呼ばわったり
「只今、此処もとへ押し寄せ
鬨の声を上げる者をば
如何なる者と思うらん
忝なくも、松王兵庫の守正重なり
五条の中将は、
この程、御門の宣旨を、背き給うぞ
急ぎ、天女を渡されよ
去らずば、城に乱れ入りて、狼藉せん」と
呼ばわりける
その時、桑原、あざ笑って
「何々、正重が、寄せたるというか
いでいで、手並みを見せん」とて
櫓をゆらりと飛んで降り
思いのままに装束し
敵(かたき)味方入り乱れ
戦(いくさ)は、花をぞ散らしける
未だ、時も移らぬままに
城の内の者共
残り少なに討たれければ
今は、こうよと思い
急ぎ、中将の御前に参り
「如何に、申さん、我が君様
この合戦と申せしは
天下の敵(かたき)なれば、勝つべきとも思われず
早早、御自害ましませ」と
あれば、中将、げにもと思し召し
腰の刀に手を掛け給えば
天女、御前に出でさせ給い
「風に脆き、露の身の
身を隠すべき、様も無し
まずまず、自らを害し
その後(のち)、如何様にも
計らわせ給え」とて
袂に縋り、泣き給う
中将、げにもと思し召し
弓手に姫の手を取り
馬手に刀を抜き持ちて
表の櫓に上がらせ給えば
桑原左近の尉も
続いて出で、櫓に上ぼり
大音声にて呼ばわる様
「如何に、敵の軍兵ども
物を語らば、確かに聞け
只今、中将も、天女御前も
御自害ましますを
侍の見習いて、手本にせよ」と
呼ばわれば
寄せ手の方の兵ども
大将、兵庫の守を始めとして
「誠に、天女御前を
音には聞けど、目には見ず
輝く程の上﨟の
故無き事に御自害
もったい無し
如何にのう、中将殿
まずまず、この度は
某、御門に上ぼり
良き様に申し直してましらせん
勅使のあらんまでは
御自害、留まり給え」と
申し捨てて、その身は、早、内裏に上がらせ給いける

御門になれば、この由、斯くと申し上ぐれば
御門、叡覧(※叡聞)ましまし
「兎角(とかく)、天女を連れて参れ」
との宣旨なり
正重、承りて、御前(おんまえ)を罷り立つが
余りの事の物憂さに、一首は、こうぞ詠じける
「雲井より 降ろす嵐の 激しくて
糸にも露の 塵も止めなん」
と、か様に詠じければ
御門、叡覧(※叡聞)ましまして
「その義ならば
迦陵頻(かりょうびん)孔雀の鳥
七日、内裏に上げよ
それが、叶わずば、天女を上げよ」と
重ねての宣旨なり

正重、宣旨蒙ぶって、御前(ごぜん)を罷り立ち
急ぎ、五條に行き
中将に対面有り、この由、斯くと、申さるれば
中将、聞こし召し
「この度、命を逃れしも
正重のお陰」とて
深く、礼儀を述べ給えば
正重、重ねて、
「迦陵頻に孔雀の鳥
七日、内裏に上げ給え
さらば、この陣退け(ひけ)」とて
我が家を指してぞ、帰りける
この人々の御命、危うかりとも中々
申すばかりは、なかりけり


三段目


去る間、中将殿は、姫君を近付けて
「か様か様の宣旨なり
如何はせん」と仰せける
姫君、聞こし召し
「何より、易き御事なり
さらば、呼び寄せ上げん」とて
南面(みなみおもて)の広縁に立ち出で
扇を開き、虚空を三度、招かせ給えば
迦陵頻に孔雀の鳥
早、御門の白州に舞い下がる
公家大臣を始めとして
誠に名誉の鳥なれば
囀る(さえずる)声の面白さは
さながら、舞楽の如くにて
七日も過ぎれば、ふたつの鳥は
早、梵天国へぞ帰りける

御門、叡覧ましまして
「この度はまた、鬼が娘の十郎姫
音には聞けど、目には見えず
七日、内裏へ上げよ
それが、叶わずば、天女を上げよ」
と、重ねて勅使が立つ
中将は聞こし召し
思うに叶わぬ事なれば
又、姫を近付けて
この事、如何にと内談ある
姫君、聞こし召し
「これも易き御事なり
その十郎姫と申すは
梵天国にては
下に使わるる下女なれば
何より易き御事なり
さらば、呼び寄せ、上げん」とて
南面の広縁に立ち出で
虚空を三度、招かせ給えば
鬼が娘の十郎姫は
早、五條の館に参りける
天女御前は、ご覧じて
「珍しや、十郎姫
汝を只今、これまで呼び寄する事
余の義にあらず
七日、内裏に上がれ」
とあれば、畏まって候とて
御門の勅使と打ち連れ
内裏を指してぞ、上がりける
御門になれば、公家大臣を始めとして
誠に鬼が娘の十郎姫は
《音には聞きて、目に見る事の
始めなれば、我も我もと参内あるに:欠落を補う》
さながら、姿は菩薩の如く
十二人の后達は
十郎姫を見ばやとて
花の如くに立ち出で
我も我もと、ご覧ずるに
十二人の后達と
十郎姫を比ぶれば
あるいは、月の出る夜は
星の光の無き風情
十郎姫は、勝りたり
后達は、ご覧じて
「何(なに)と姿は、優(ゆう)なりとも
和歌の道は、知らなましもの」とて
各々、歌を詠みて、掛け給う
十郎姫、取りあえず返歌をなす
琵琶、琴を出だすれば(※いたし給えば)
感に妙なる音を調べ
何はの事に至まで
学び残せる道も無し
御門、叡覧ましまして
「如何に、十郎姫
汝は斯程、姿は優しくて
何とて、五條の天女には従わ(ゆ)るぞ」と
宣旨有り
十郎姫は承り
「愚かの宣旨かな
あの姫君の御事は、中々、申すも畏れあり(※愚かなり)
忝なくも、梵天国と申すは
高さ八万由旬にして
須弥の山を型取れり
国の数は、十万七千七百有り
かかる大国の王の姫宮なれば
御意(ぎょい)に背く事候わず
(※それ故)これまで、参りて候」
暇申して、さらばとて
七日も過ぎれば、十郎姫は
早、梵天国へぞ帰りける

御門、叡覧、ましまして
「あの、十郎姫は梵天国にて
下(しも)に使わるる下女だにも
斯程、姿の優なれば
さこそ天女は、さぞやあるらん」と
いよいよ、憬れ給いける
重ねての宣旨には
「下界の龍神、音には聞けど
目には見えず
七日、内裏へ上げよ」との宣旨あり
中将、聞こし召し
又、姫君を近付けて
「この度は又、斯様斯様の難題
如何はせん」と仰せける
天女御前は、聞こし召し
「これは、易き御事
さらば、呼び寄せ上げん」とて
南面に出でさせ給いて
下界の龍神と、三度招かせ給えば
晴天、俄に掻き曇り
(※雷電稲妻しきりにて)
御門の御殿も、崩るるばかりなり
公家大臣を始めとして
十二人の局々に至まで
「こはそも、世の騒ぎと(※世の失せ果てかと)
上を下へと、返しける
御門、叡覧ましまして
急ぎ、五條の中将を召され
「如何に、中将
余り、鳴神(なるがみ)凄まじきに、鎮めよ」
と仰せける
中将、聞こし召し、御前(おんまえ)を罷り立ち
家の大人に、桑原左近の太夫を召され
「如何に左近、あの鳴神、鎮めよ」
と仰せける
承ると申して
四尺八寸の「雲払い」という剣を抜き
虚空を三度、切り払い、切り払い
「鎮まり給え、龍神達
桑原、これにあり」と
呼ばわれば、鳴神は、鎮まって
みのり(御法)の空となりにける
去ればにや、昔より
今の世に至まで
天に雷(いかずち)鳴りければ
桑原、桑原と呼ばわる因縁これなり
御門、叡覧ましまして
例(ためし)少なき次第なり
さらば、五條の中将を
中納言に付せらるる
天下の聞こえ、世の覚え
例少なき次第とて
感ぜぬ者こそなかりけり


四段目


去るほどに、御門には
公家大臣を召されつつ
「(※さても五条の高則)
色々の望み物(※事)を叶えしこと
ごうん(?※神妙)なれ
この度はまた、梵天王の自筆の判を
音には聞けど、目には見ず
誠に、五条の中納言が
梵天王の婿ならば
自筆の判を上げよ」と
勅使立つ
中納言は聞こし召し
思うに叶わぬことなれば
又、姫君を近付け
このこと如何にと内談ある
姫君は聞こし召し
「こは誠か、情けなや
今更、下界の地に下り
五濁(ごじょく)の塵に身を汚し
通力自在も、叶わねば
如何はせん」との給いて
泪(なんだ)を流して、おわします
中納言は聞こし召し
「心安かれ、それ日本(にほん)の習いには
叶わぬ事をば
神、仏へ、申して祈る習いの候えば
叶わぬまでも
氏神、清水(きよみず)の観世音に
祈誓を懸け申さん」と
数多の供人(ともびと)。打ち連れ
清水さしてぞ参らるる

御前(おんまえ)になれば
鐘の緒に手を掛け
「南無や、帰命頂礼
願わくば、萬(よろず)の仏の願よりも千手の誓いは頼もしや
哀れ、願わくば
梵天王の自筆の判を
さほいなく(相違無く)給われ」とて
一七日(いちしちにち)、籠もらるる
七日の満ずる御霊夢に
駒に乗り、天上するとご覧じて
夢は、そのまま、醒めにける
中納言、ご覧じて
あら有り難やと
虚空を三度、伏し拝み
我が家に帰り
清き流れの水を汲み
御身を清め給いて
南面の広縁に、出で給えば
何処より来たりけん
龍馬(りゅうば)来たって
前膝折って、伏しければ
中納言、ご覧じ、姫君を近付け
「如何に、のう、姫君
あれあれ、ご覧候えや
清水の観世音より
龍馬、給わるなり
あの馬に乗り、天上せん」と仰せける
姫君は聞こし召し
「こは、誠か、情けなや
自らが故に、帝より
色々難題あり
日々(にちにち)片紙が間
心休まる暇(ひま)も無く
(※ことにまた)
知らぬ雲井の旅の空
思いやられて候」とて
袂に縋り泣き給う

中納言は、聞こし召し
「行く末とても、頼み無し
生きて再び帰りこん
後の契りもいざ知らず」
引き結びたる御手をば
放ちもやらず
さらば、さらばとの
泪の別れぞ、哀れなり

あら、労しやな、中納言
駒に打ち乗り、
やがて一首は、こうぞ詠じけん

「目を塞ぐ、心ばかりや、思い知れ
露けき旅の 一人寝をのみ」

と、斯様に詠じける
姫君、頓(やが)て、返歌と思しくて

「旅立ちし 君を見る目の 涙川
深き思いを 如何にせんとは」

と、斯様に、詠じ給えば
中納言は、目を塞ぎ、梵天国へぞ、のぼらるる
三日三夜と申すには
駒は陸地(ろくぢ)に着きにける
御目を開き、ご覧ずれば
うでう(十丈)余りの閻浮樹あり
駒を彼処に乗り放し
十町ばかり、行きてみれば
ここに、天人一人、来たりける

「この国は、如何なる国ぞ」と
問い給えば
「梵天国」と答えける
「帝は何処」と問いければ
遙か東に指を指す
中納言は、教えに任せ
五町ばかり、行きてみれば
ここに、赤栴檀の林あり
無量の花は咲き乱れ
ほうわう(芳香)、風にれんまんし(?)
音楽、調子を調える

尚も、先を見てあれば
ここに、黄金(こがね)の橋あり
かの橋を渡らんと
辿り渡らせ給いける
橋の下には、弘誓の舟を浮かめたり
弓手に黄金(こがね)の山は、聳えたり
馬手には白銀(しろがね)の高山あり
弓手、馬手よりも
玉(たま)の内裏は照り渡る

夜と昼との隔てもなく
楽しみ遊ぶ、楽の音
心も言葉も及ばん(れ)ず
さて、内裏の東門を打ち過ぎ
清涼殿に上がるれば
奥より、天人一人来たり

「珍しや、客人(まれびと)
此方へ」
と、招ずれば、中納言は、聞こし召し
怖(お)めず臆せず 、直らるるが
ややありて、内より
瑠璃の盤に、
「これや天の甘露の酒なり」とて
玉座を構え、直し置く
中納言、ご覧じ
「げにや、梵天には
飯食(いいしょく)を、我が儘に、
手ずから食すと承る、飲まばや」と
思し召し
三献、汲んで、乾されけるが
元の如くに直し置く

ややあって、内より
濃紅(こきくれない)の盤に
その丈、三寸の米(よね)の飯
八百流れの珍物に
八十二色の供え物
玉座を構え直し置く

中納言、ご覧じ、これをも取りて、食し給う
彼処(かしこ)を見れば
罪人あり
足、手は熊の如くにて
金(かね)の鎖をもって、八方へ厳しく
縛め置き給うが
牢の内より、声を上げ
「あな、浅ましや
その飯(はん)、我に一口、給われ」とて
黄なる涙を流しける
中納言、聞こし召し
第一親孝行の人なれば(※慈悲第一の人なれば)
「それ、法華経にも、
三界(さんがい)無安(むあん)猶女火宅(ゆいにょかたく)
と説かれしも、これなるべし
かかる目出度き国だにも
咎をば、許さぬ習いかや
咎はともあれ、かくもあれ
与えやば」と思し召し
かの飯を、笹に包み
牢に投げ入れ給えば
喰うより早く
通力自在の力を受け
八方に繋ぎ止めたる
金の鎖を一度に、ばらりと捻じ切って
牢を蹴破り、飛んで出で
葦原国に飛び来たり
五條の天女を奪い取り
羅仙国(らせんこく:不明)へぞ帰りける

されば、昔より
恩は(を)、仇にて報ずるとは
掛かる事をや申すらん
前代未聞の曲者やと
皆、感ぜぬ者こそなかりけり


五段目

 

 

去るほどに、梵天国の大王は
黄金(こがね)の椅子に召され
天蓋の華鬘(けまん)玉(ぎょく?)の旗
天人に差し掛けられ
清涼殿へ出御(しゅつぎょ)あり
御前(おまえ)には、中納言を召され
「珍しや、中納言
汝を、婿に取ることは
親に孝ある故ぞかし
只今、失せし、罪人は
汝が為には、敵(かたき)ぞよ
羅仙国の大王に、破羅門(ばらもん)王
言いし者
姫、七歳の時よりも
奪い取らんと企み(たくみ)しを
四天王を語らい、押さえて
彼を縛め(いましめ)置く

今日か明日かの内に
八つ裂きにせんと企みしに
逃がしつるこそ、不覚なれ
只今、汝に供えし右の飯
梵天国にては、容易く求め難し
忝なくも、しつこう(寂光カ)の池の水際(みぎわ)に出る米(よね)
一(いち)粒(りゅう)食すれば、千人の力を受け
千歳を保つなり
汝、大切成る故に、授けし、飯を
破羅門王に、食させて
喰うより早く、通力自在の力を受け
落ち失せたれば
定めて、葦原国なる
かの姫を奪い取り行くらんが
さても口惜しや」と
の給いて、忝なくも両眼に
御涙を浮かめさせ給うぞ、有り難き
中納言は聞こし召し
「故郷なる、妻の行方も、おぼつかなし
哀れ、願わくば、自筆の御判を給われかし」
と、申さるれば
大王は聞こし召し
「葦原国なる、姫もあるまじきに
自筆の判も、何ならず」
と、宣旨あり
中納言は、聞こし召し
「いや、日の本のためし(?例)に仕らん」
と申さるれば
忝なくも、大王は
「さあらば、自筆の判を取らせん」とて
自筆の御判を下さるれば
中納言は、三度押し頂き
互いに、お暇乞い、乞われ
本の道へと、帰らるれば
梵天の大王は、御殿に、入らせ給いける

労しや、中納言は
目を塞ぎ、駒に乗り
三日三夜と申すには
葦原国なる、五條の館に、帰らせ給う
御前(おまえ)なる女房、侍衆に至まで
「嬉しや、君のお帰り、あら、目出度や」
とて、上を下へぞ返しける
去れども、中納言の乳母(めのと)に
北の局と言いし人
「如何にのう、我が君様
天女御前をば
一昨日(おととい)の暮れ程に
魔王が取りて行きけるわ」とて
袂に縋り嘆かるれば
中納言は、聞こし召し
肝、魂もあらばこそ

「ああ、南無三宝
羅仙国の大王、破羅門王が
取りて行くらんか
さても、口惜しや」
との給いて
姫君の大殿(おとど)ご覧じて
古き衾(ふすま)や留まりぬ
形見も今は、仇なりとて
かの御小袖を、胸に当て
顔に当て、嘆かるるが
「会者定離、盛者必衰(えしゃじょうり、しょうじゃひっすい)の理なれば
驚くべきにあらず
これを、菩提の種として
遁世せばや」
と思し召し
辺りの寺に参り
上人に近付き

「如何にのう、上人様
御菩提有るべし」
と申されば
上人は、聞こし召し
「未だ、やんごとなき上﨟の
御菩提とは、おぼつかなし」
と仰せける
 中納言は聞こし召し
「ご不審は、尤もなり
幼稚の昔は、父母に遅れ
盛りた(の)今は、我妻に
吾が、出離れし物憂さに
憂き世の望みも、財宝も、由なや
今は何にせん
髪下ろして、給われ」
と、あれば、
上人、辞するに言葉なくして
昨日までも、今日までも
千筋(ちすじ)と撫でし御髪(おぐし)をば
早や、四方浄土と剃りこぼし
墨染めの衣を参らすれば
くちき(?くろき:黒木)の数珠を襟に掛け
じょうがいこし(浄快居士)と、名を付きて

(道行き)

頼む物には、竹の杖
妻の行方を尋ねんと
京九重の都を出で
月の行方(ゆくえ)に、我一人
筑紫下りの物憂さを(に)
幻(うつつ)とさらにおもほえず
涙は、幾たび、道芝の
露、深草(つゆふかくさ)の里荒れて
人、はふ(放ぶ)りにし、ころなれや
軒(のき)も御えだ(※籬(まがき)も)も形ばかり
折からなれや、薄墨の
桜は今ぞ、紅葉(もみじ)の秋
鳥羽(京都市南区)に恋塚(恋塚寺:京都市伏見区)
桂(かつら)の里(京都市西京区:桂離宮)
都を隔つる、山崎や(乙訓郡大山崎町)
東に向かえば、有り難や
石清水を伏し拝み(石清水八幡宮:京都市八幡市)
昔語りを、今の世に
ためし(に)、社引け(※弓八幡)
男山の女郎花(おみなめし)の(※謡曲)
一とき(時)を
くねると書きし、水茎(みずぐき)の
跡懐かしき、関戸の院、
日も呉竹の里にて(※里荒れて)
いな(?)の笹原、吹く風に
露袖招く、おばながむら(尾花が村?)
松風に松風に煙り担ぐ、尼ヶ崎(兵庫県尼崎市)
早、大物に着いたよな(兵庫県尼崎市大物町)

これよりも、四国西国へ、押し渡り
妻の行方を尋ねんとて
便船を求むるに
渡海の舟は多けれど
一人法師(ひとりほうし)は禁制(きんぜい)とて
乗せんと言える人は無し
労しや中納言、前後を茫してましますが
何処よりかは、来たりけん
白髪たる翁の来たり(※小舟に乗り来たり)

「如何にのう、修行者
この舟に召され候え
思し召そうず湊に
送り届けて参らせん」
とあれば
中納言は、(※悦び給い、やがて)
翁の舟に打ち乗りて
波路、遙かに漕ぎ出だす
後(あと)白波の寄る辺なく
浮き寝の床(とこ)の楫枕
都に帰らん夢をさえ
めうさん(?)須磨の関の戸を
明くる明石の浦伝い
筑紫下りの途次(みちすがら)
兵庫の浦とは、あれとかや
すさき(州崎)に寄する浪の音
物凄まじき、岩伝い
ゆづりはがたけ(譲葉ヶ岳:諭鶴羽山(ゆづるはさん):淡路島)を弓手になし
播磨の国(兵庫県西南部)なる
室山(むろやま)降ろしに誘われて(現兵庫県たつの市御津町室津港の背後にある丘陵)
揺られ、流るる釣り船
思わん方(かた)へも流れ行け
浪に揺られて漂えり
風に任せて行く程に
男鹿(たんが)クラ卦、過ぎて打ち(家島諸島の無人島)
海上、俄に景色変わって
白波、青海(せいがい)を洗いつつ
多く見えつる舟どもも
皆、十方に吹き離され
行き方知らず、なりにけり

中納言の召されたる舟は
日本海(※日本の海の意)を吹き離され
鬼満国(きまんこく)を打ち過ぎて
羅仙国(らせんこく)にぞ着いた(りけり)(※着きにける)
翁は、
「如何にのう、修行者(しゅぎょうじゃ)
只今の悪風に、なんなく、これに、送りたり
我を誰とか思うらん
汝が為には、氏神、清水の観世音なるが
おことが妻に逢わせんため
五海の龍神となって
この所に送りたり
汝が妻には、この島にて逢うべきなり
尚も、行く末守らん」とて
廾尋(二十尋)(はたひろ)の大蛇となって
雲井遙かに上がらるる
労しや中納言は、御跡を、伏し拝み
方便(たつき)も知らぬ浜端に
只一人(いちにん)、泣き明かして
おわします
かの、中納言の心の内
哀れとも中々、申すばかりはなかりけり

 

六段目
 
あら、労しや、中納言
方便(たつき)も知らぬ浜端に
只一人 
泣き明かしてぞ、おわします
人住まぬ、国なれば
語り慰む友も無し
たまに事問う物とては
浜の千鳥の友呼ぶ声
州崎(すざき)に寄する浪の音
物凄まじき事なれば
漢竹の横笛(ようじょう)を
腰よりも、抜き出し
音も澄みやかに、吹かれけるを
鬼の大王、破羅門王(ばらもんおう)
笛の遠音を聞きつけ

「何やら、浜端で、面白き音の
聞こゆるは 連れて参れ」
と、申しける
眷属どもが承り
急ぎ、浜端に飛び来たり
やがて、修行者を、取って押さえ、連れて行く
破羅門王は、見給いて
「如何に、(のう)修行者
この国と申せしは
三界を隔つれば
人の通わぬ国なるに
何(なに)として来たれるぞ
語れ、聞かん」と仰せける
中納言は聞こし召し
大王の姿を(一目)つくづくと、見給いて
「南無三宝、一年(ひととせ)
梵天国を、落ち失せたりし罪人なり
日本の者と言うならば
悪しかりなん」と思し召し
「これは、遙か数万里(すまんり)
けいたん(契丹)国の者なるが
仏法修行に出るとて
悪風に流され
これまで参り候えば
哀れ、只、御慈悲あれ」
とぞ申しける

大王は聞くよりも
中納言の姿を、つくづくと見給い(見よりも)
「御身の姿を良く見れば
一年(ひととせ)、梵天国の婿なりし
中納言が姿に良く似たり
汝、偽って、来たるべし
語れ、聞かん」
と申しける
中納言は、聞こし召し、にっこと笑って
仰せけるは
「かかる卑しき修行者を
及びも無き、梵天国の婿と
仰り(おっしゃり)候や
その上、五戒を保つ僧なれば
一念五百生、懸念無量劫と聞く時は
例え、梵天王の姫宮にて候えども
目に見る事も禁制(きんぜい)」とて
面(おもて)を振って仰せける
大王は聞くよりも
「さては、苦しからず
のう、如何に修行者
近頃(の)望みなるが
只今(吹きし)の横笛(よこぶえ)とやらんを
そと、ひと手、遊ばせ
承らん」と申しける

中納言、聞こし召し
「さらば、ひと手、吹かばや」とて
腰より、漢竹の横笛(ようじょう)を抜き出だし
楽(がく)は、様々多けれど
女子(にょし)が男子(なんし)を恋ゆる楽
男子が女子を偲ぶ(しのぶ)楽
想夫恋(そうふれん)という楽を
半時(はんじ)が程こそ、吹かれける
大王を始めとし
鬼の眷属どもに至るまで
四方(よも)に眠り(ねぶり)を
さましける

御簾の内なる、天女御前
御笛の遠音を聞こし召し
「あら、不思議や
この笛の調子は
妾(わらわ)が夫(つま)の中納言の調子でありけるが
何として、これまで、来たらせ給うぞ」と
声をも上げず、漫ろ(そぞろ)の涙、堰あえず
御前(おんまえ)なりし、女房共のその中に
蛇骨(じゃこつ)の夜叉女(やしゃにょ)とて
心の猛き女あるが(ありしが)
姫君の涙の風情を見て
「如何にのう、姫君
あの修行者の吹くものを聞こし召し
御涙の、零るる事の、怪しや」とあれば
姫君は聞こし召し
「のう、人々は、聞き知らずや
あれは、妾が日頃
梵天国にて、弄び(もてあそび)し
横笛(よこぶえ)という物なるが
あの笛の音を聞くからに
故郷のことの思われて
それにて、涙の零るる」とて
又、さめざめと泣き給う

その折節
隣国より、遣い参る

大王、姫君に近付き
「如何にのう、姫君
某は、並びの国に、合戦あって
三日がその内
貢ぎ勢(みつぎぜい)に参り候なり(参るなり)
折々、恋しきその時は、
あの修行者に
横笛(よこぶえ)とやらんを吹かせ
共に、御物語候え」とて
「やがて帰らん、さらば」とて
並びの国へぞ、急ぎける

姫君も中納言も
互いに心は通えども
人目を思う事なれば
泣くより外の事は無し
されども、姫君
知恵を巡らし
酒宴して遊ばんとて
夜と共に、手ずから
酌に立ち給えば
二人の女を始めとして
差し受け、引け受け飲む程に
算を乱した如くなり
姫君、ご覧じ
時分は良きぞと思し召し
間(あい)の障子をさらりと開け
「のう、こは、中納言殿か」
「姫君か」と
互いの袖に縋り付き
これはこれはと、ばかりなり

ややあって、姫君仰せけるようは
「如何にのう、
妾を連れて、葦原国へ帰らせ給え」とあれば
「ああ、音高し、音高し
この島と申せしは
三界を隔つれば、如何にとしてか、叶うまじ」
姫宮、聞こし召し
「此処に、鬼の秘蔵せし
千里を駆くる、車あり
いざや、この車に乗らん」とて
やがて、車に打ち乗り
葦原国へと、帰りける(給う)

二人の女は、笛の止みしを
怪しく思い
かっぱと起きてみれば
姫と修行者は、ましまさねば
ここに又、万里へ聞こゆる
合図の太鼓あり

「さあらば、太鼓を打てや」とて
やがて、太鼓を打ちにける
破羅門王は、聞くよりも
「あら、不思議や」とて
急ぎ国に帰りてみれば
姫君はましまさず
さればと思い
ここに又、万里を駆くる車あり
この車に乗り
葦原国へぞ、刹那が間におっ詰め
既に引き裂き、喰わんとせしが
有り難や、有り難や
梵天の帝より
四天王、飛び来たり
破羅門王が車を、微塵に蹴破り給えば
底の水屑(みくず)となりにける

それよりも人々は
葦原国に帰らせ給い
五條の館に、移らせ給いて
それよりも
中納言殿は、梵天王の自筆の御判を
帝に差し上げ給えば
帝、叡覧ましまして
「日本の例(ためし)にせん」とて
父、大臣殿を勧請、降ろし奉り
梵天王の自筆の御判を、相い添え
五條の西の洞院(とういん)に
天使の宮と、斎い(いわい)奉る
国土を納め、仏果を守り給うとかや
さればにや
天使とは、天の使いと書くとかや

その後(のち)、中納言殿
丹後、但馬は、本国なれば
安堵の御判、給わりて
有り難し、有り難しと
三度、頂戴なされ(つつ)
館へ帰り
供人数多召し連れ
本国指してぞ、帰らるる

国にもなれば、
みねにみね(※棟に棟)
門(もん)に門(かど)を立ち並べ
富貴の家と栄え給う
例(ためし)少なき次第なり

その後(のち)中納言殿をば
切戸(きれど)の文殊と斎い
天女御前をば
成相の観音と勧請し奉る
今の世までも
衆生を済度し
国土を守り給うなり
(※誠に、上古も末の世も)
例少なき御事と
上下万民、おしなべて
尊っとかりとも中々
申すばかりはなかりけり

右、この本は、太夫直伝
これ以て、正本一字一点
誤り無く写し、これを板行するものなり
丑三月吉日 油町 山形屋新板